駿府城公園 | 場所と地図 – 歴史のあと

駿府城公園

駿府城 城跡
駿府城
ジャンル:城跡
史跡年代:安土桃山時代 ー 幕末維新

静岡県静岡市にあった城。
徳川家康が大御所として晩年を過ごした城として知られる。

歴史・概略

室町時代、駿河を領有する今川氏によって今川館が築かれたことに始まる。以後は今川氏が本拠としたが、今川館の正確な位置の特定には至っていない。

その後今川家の人質となっていた若き徳川家康も駿府で10年ほどを過ごしている。そして織田信長により今川義元が討ち取られ、力を弱めた今川氏は甲斐の武田氏によって城を追われ実質的に滅亡した。

しかし、その武田氏も織田・徳川連合軍によって攻め滅ぼされ、駿河は徳川氏が領有することとなった。家康は新たに駿府城を築城し浜松城から居城を移した。

北条氏滅亡後に駿府城は一旦豊臣系へと代わるが関ケ原の戦いに勝利した徳川氏が再び取り戻した。天下人となった家康は将軍職を秀忠に譲り、大御所として駿府城に隠居する。それに際して全国の大名に命じて修築させ、3重の濠を持ち5層7階の大天守がそびえる大御所が住むに相応しい立派な城となった。

  • 築城:天正13年(1585年)
  • 廃城:明治2年(1869年)
  • 築城主:徳川家康
  • 構造:輪郭式・平城
  • 主な城主: 徳川氏・中村氏・内藤氏
  • 日本100名城
  • 14世紀、今川氏が今川館を築く
  • 天文18年(1549年)、後の徳川家康今川氏の人質として駿府で生活を送る
  • 永禄3年(1560年)、桶狭間の戦い
  • 永禄11年(1568年)、武田氏の侵攻を受け今川氏真が敗走
  • 天正10年(1582年)、織田・徳川が武田領へ侵攻し武田氏が滅亡 駿河が徳川領となる
  • 天正13年(1585年)、家康が駿府城の築城を開始、居城とした
  • 天正17年(1589年)、駿府城が完成
  • 天正18年(1590年)、家康が江戸に移封され豊臣系の中村一氏が入封
  • 慶長5年(1600年)、関ケ原の戦い
  • 慶長6年(1601年)、徳川家臣・内藤信成が入封
  • 慶長12年(1607年)、家康が大御所として駿府城に入城
  • 慶長12年(1607年)、天守や本丸など焼失し、修築を開始
  • 慶長14年(1609年)、家康の子・徳川頼宣が入封
  • 慶長15年(1610年)、天守閣完成
  • 元和2年(1616年)、家康が駿府城において死去
  • 寛永2年(1625年)、徳川家光の弟・徳川忠長が入封
  • 寛永12年(1635年)、失火により建物の大半を焼失
  • 寛永9年(1632年)、忠長が改易 これ以後駿府は天領となる
  • 寛永15年(1638年)、御殿、櫓、城門を再建
  • 宝永4年(1707年)、宝永大地震で建物、石垣などに被害
  • 安政元年(1854年)、安政の地震で建物、石垣などに被害
  • 明治2年(1869年)、廃城
  • 明治24年(1891年)、公園となる
  • 明治29年(1896年)、陸軍省に奉納
  • 昭和24年(1949年)、再度公園として整備

見どころ・おすすめ

  • 東御門・巽櫓-復元櫓。駿府城の発掘資料や徳川家康に関する資料館。
  • 坤櫓-復元櫓。
  • 天守台-現在発掘調査中。
  • 家康公像-晩年の家康公の姿を再現した像。

史跡情報

地図
【場所】
静岡県静岡市葵区駿府城公園
【付近の史跡】
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主な施設
東御門・巽櫓・坤櫓・紅葉山庭園
利用時間
公園内は常時

【東御門・巽櫓・坤櫓・紅葉山庭園】
 9:00 ~ 16:30
定休日
公園内は無休

【東御門・巽櫓】
 月曜日(祝日、休日の場合は翌日)・ 年末年始

【坤櫓・紅葉山庭園】
 月曜日(祝日、休日の場合は開館)・年末年始
料金
公園内は無料

【東御門・巽櫓】
 大人200円 小人50円

【坤櫓】
 大人100円 小人50円

【紅葉山庭園】
 大人150円 小人50円
(各種割引き、共通券等あり)
交通
【電車】
・静鉄「新静岡」駅から約0.4Km
・JR「静岡」駅から約0.8Km

【バス】
・駿府浪漫バス「東御門」「駿府城ひつじさる櫓」「中央体育館前」バス停

【マイカー】
・東名高速「静岡IC」から約5Km
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