足利尊氏 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 場所と歴史をわかりやすく簡単に解説! Sun, 19 Mar 2023 09:03:56 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.2.5 https://rekishidou.com/wp-content/uploads/cropped-kofun-32x32.jpeg 足利尊氏 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 32 32 竹之下古戦場(延元の乱) https://rekishidou.com/takenoshita/ https://rekishidou.com/takenoshita/#respond Thu, 25 Jan 2018 02:26:09 +0000 http://rekishidou.com/?p=5596 鎌倉時代から室町時代へと至る転換期、後醍醐天皇側の新田義貞と天皇に反発する足利尊氏との間で起こった「箱根・竹ノ下の戦い」が行われた場所。

歴史・概略

  • 鎌倉幕府を倒し、新たな政権となる「建武の新政」をスタートさせた後醍醐天皇であったが、その政権運営は武士たちの反発を招くものであった。その結果、各地で北条勢力が蜂起し、鎌倉を占拠するに至った(中先代の乱)。
  • 足利尊氏(あしかが・たかうじ)はこの乱を鎮めるため天皇の勅を得ないまま鎌倉に向け出陣、北条勢力を一掃し乱を鎮圧した。しかし、乱の鎮圧後も尊氏は鎌倉を動かず、尊氏の自立を恐れた天皇新田義貞(にった・よしさだ)に対し尊氏追討の宣旨を下した。
    このことによって、天皇尊氏の関係は手切れとなり、天皇足利氏の戦い延元の乱(えんげんのらん)」が勃発することとなった。ほかに「建武の乱(けんむのらん)」とも呼ばれる。
  • 天皇から尊氏追討の命令が下った状況に、尊氏は寺に入って髷を落とし、天皇に逆らう意思がないことを示した。しかし一方では、東海道を下る新田軍に対し尊氏の弟・足利直義(あしかが・ただよし)が迎撃に出たが、矢作川や手越河原などで敗走、追討軍は箱根や竹之下に進み鎌倉のすぐ西にまで迫った。
  • 建武2年12月11日(1336年1月24日)、各地で味方が敗れ新田軍が鎌倉に迫ってきた状況に尊氏はついに出陣を決断、竹之下に陣を張っていた義貞の弟・脇屋義助(わきや・よしすけ)を奇襲し大勝した。箱根では直義軍義貞に敗れたが、尊氏の出陣により足利軍への寝返りが続出するなど新田軍は総崩れとなり、義貞は敗走した。
    このあと足利軍は勝利の勢いに乗り、建武政権に反感を抱く武将たちを味方につけながら一気に都に攻め上った。
  • 戦いは各地で半年ほど続いたが、最終的に尊氏が京都を制圧、室町幕府を開き尊氏は初代将軍に就任した。
  • 「延元の乱(建武の乱)」におけるおもな戦い
    矢作川の戦い/手越河原の戦い/箱根・竹ノ下の戦い/第一次京都合戦/豊島河原の戦い/多々良浜の戦い/湊川の戦い/第二次京都合戦/近江の戦い
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六波羅蜜寺(平氏六波羅第・六波羅探題府址碑) https://rekishidou.com/rokuharamitsuji/ https://rekishidou.com/rokuharamitsuji/#respond Sat, 30 Apr 2016 01:32:25 +0000 http://rekishidou.com/?p=2456 天暦5年(951年)、市聖(いちひじり)と呼ばれた空也上人によって開かれた真言宗寺院。

歴史・概略

  • 空也上人(くうやしょうにん)平安時代中期の僧で、当時都に蔓延していた疫病平癒のため踊りながら念仏を唱え病人に茶を振る舞ったとされる。
  • 平安時代末期には平氏一門がこの一帯に六波羅館を営み、平氏最盛期の拠点となった。しかし、平家の柱であった平清盛が亡くなると勢力は衰え都を離れることとなった。そして居館は平氏が都落ちする際に焼き払われたという。
  • 鎌倉時代初期(承久の乱の後)には朝廷の監視や治安維持、西国の監視などを目的にこのあたりに鎌倉幕府の出先機関である六波羅探題が置かれた。
  • 平氏六波羅第・六波羅探題府址碑

    平氏六波羅第・六波羅探題府址碑(六波羅蜜寺・京都府京都市)

  • 元弘3年(1333年)、幕府に反旗を翻した足利高氏(後の尊氏)の攻撃を受け六波羅探題が滅亡。同じく関東では新田義貞らが挙兵し鎌倉幕府が滅亡した(元弘の乱)。

見どころ・おすすめ

  • 本堂-貞治2年(1363年)。重要文化財。
  • 宝物館-寺宝の展示館。木造空也上人立像・平清盛座像など。
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足利尊氏邸・等持寺跡(室町幕府発祥の地) https://rekishidou.com/takaujitei/ https://rekishidou.com/takaujitei/#respond Tue, 17 May 2016 01:38:07 +0000 http://rekishidou.com/?p=1277 室町幕府を開いた初代将軍・足利尊氏の屋敷である二条万里小路第・三条坊門第があった場所。
室町幕府の由来ともなっている室町第が御所となったのは、3代将軍・義満以降の時代であるため、「室町幕府発祥の地」といわれる場所である。

歴史・概略

  • この場所には、古くは平安時代中期の公卿・藤原定方(ふじわら・さだかた/873年 ~ 932年)の屋敷・大西殿があり、後に冷泉天皇の中宮・昌子内親王(まさこないしんのう/950年 ~ 1000年)の屋敷となった。
  • 後醍醐天皇の「建武の新政」が行われた時代には、足利尊氏がこの場所に屋敷(二条万里小路第)を構えた。京都文化博物館の解説文によれば、この屋敷は二条大路、三条坊門小路(御池通)、万里小路(柳馬場通)、高倉小路に囲まれた南北250m、東西120mの範囲であったという。
  • この屋敷の三条坊門小路を挟んだ南側には、尊氏の弟であった足利直義(あしかが・ただよし)が屋敷を構え、三条坊門第や三条殿、三条高倉殿などと呼ばれた。
  • 直義は邸内に持仏堂を置いたといわれており、これが足利氏の菩提寺となった等持寺の始まりとされる。
  • 室町時代初期には、尊氏がこの場所で将軍としての政務をこなし、三条坊門第では直義が幕府を切り盛りしていた。まさに幕府の中枢であり、「室町幕府発祥の地」といわれるゆえんである。
  • 正平4年/貞和5年(1349年)、足利氏執事であった高師直直義が次第に対立を深め、内乱へと発展観応の擾乱した。これによって直義は失脚し、直義は屋敷を出て後には尊氏の嫡男・足利義詮(あしかが・よしあきら)が移り住んだ。
  • 正平7年/文和元年(1352年)、南朝方が京都に侵攻(八幡の戦い)、屋敷が被災した。
  • 正平13年/延文3年(1358年)、邸内で尊氏が死去。享年54。尊氏の子で直義の養子であった足利直冬(あしかが・ただふゆ)との戦いで受けた傷によるものと言われる。
  • 正平20年/貞治4年(1365年)、義詮が三条坊門第の東隣に新たな屋敷を建て移り住んだ。
  • その後は荒廃や再建を繰り返しながら、御所のひとつとして8代・足利義政の頃まで使用された。
  • ここにあった等持寺は、「応仁の乱」以降の足利将軍家の弱体化によって衰退し、別院であった等持院に合併された。

見どころ・おすすめ

  • この場所の少し南にある御所八幡宮は、足利尊氏が邸内に造営した社がルーツと言われる。
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東寺 https://rekishidou.com/toji/ https://rekishidou.com/toji/#respond Thu, 28 Apr 2016 02:20:53 +0000 http://bng2.com/rekinavi/?p=351 平安京遷都より続く京都にある真言宗寺院で教王護国寺(きょうおうごこくじ)とも呼ばれる。高野山を開いた平安時代の高僧空海ゆかりの寺として知られている。

歴史・概略

  • 平安京造営の際、都の守りとして建てられた国立の官寺。平安京の南側中央に設置された正門ともいえる羅城門(らしょうもん)の東側に東寺(とうじ)、西側に西寺(さいじ)がそれぞれ建てられた。それから数十年後の弘仁14年(823年)、東寺は空海(弘法大師)に下賜され真言密教の根本道場となった。

  • 西寺跡

    基壇が残る西寺跡(京都府京都市)

  • 1200年に及ぶ長い歴史の中では衰退していた時期もあったが、多くの有力者によって支えられ、現在では京都観光の名所となっている。
  • 国宝(金堂・五重塔・大師堂・蓮花門・観智院客殿)
  • 世界遺産(古都京都の文化財)
  • おもな出来事
    ・796年 建立
    ・823年 真言密教根本道場となる
    ・1221年 京方の三浦胤義が立て籠り幕府軍と交戦(承久の乱
    ・1336年 足利尊氏新田義貞が交戦(延元の乱
    ・1336年 光厳上皇が仮の御所とする
    ・1467年 応仁の乱大内政弘が陣を置く
    ・1486年 火災により大部分を焼失
    ・1603年 豊臣秀頼の寄進により金堂建立
    ・1644年 徳川家光の寄進により五重塔建立
    ・1994年 世界遺産に認定
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名和長年公殉節所(延元の乱) https://rekishidou.com/nawasenshi/ https://rekishidou.com/nawasenshi/#respond Wed, 13 Jun 2018 02:08:11 +0000 http://rekishidou.com/?p=3229 後醍醐天皇を支えたひとり名和長年の戦死の地。

歴史・概略

見どころ・おすすめ

  • この周辺は平安時代頃には大内裏があった場所で、豊臣秀吉の時代には聚楽第が建てられていた場所でもある。付近にはそれを示す石碑が点在しているので、散策のついでにでも行くといい。

関連動画

南北朝への分岐点!名和長年最期の地
後醍醐天皇を支えた忠臣・名和長年最期まで天皇に忠誠を誓い足利尊氏の軍と戦い散っていった・「名和長年公殉節之所」碑#名和長年#京都#歴史
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篠村八幡宮(足利尊氏旗揚げの地) https://rekishidou.com/shinomurahachiman/ https://rekishidou.com/shinomurahachiman/#respond Tue, 07 Jun 2016 01:56:56 +0000 http://rekishidou.com/?p=3123 足利高氏(後の足利尊氏)が鎌倉幕府打倒の兵を挙げた地。

歴史・概略

  • 鎌倉時代末期、鎌倉幕府の有力な御家人であった足利高氏は、幕府の命を受けて反幕府勢力を掃討するため大軍を率いて西へと向かっていた。しかし、高氏はこれを好機ととらえて後醍醐天皇に味方することを決断、元弘3年/正慶2年4月29日(1333年6月12日)、足利氏の所領である篠村において幕府に反旗を翻した。
  • 篠村八幡宮で挙兵した高氏は必勝祈願の願文を奉じ、数日滞在したのちの5月7日(6月19日)、佐々木道誉赤松則村らの兵とともに鎌倉幕府の出先機関である六波羅探題に攻め入って勝利した。
  • 時を同じくして、関東では新田義貞が挙兵し、鎌倉へと攻め入った。5月22日(7月4日)、北条家一族は自害、鎌倉幕府は滅亡した。
  • 鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇は京に入り「建武の新政」を開始。高氏後醍醐天皇から倒幕の戦功が認められ、天皇の名の「尊治」の一字をもらい「尊氏」と名を改めた。

見どころ・おすすめ

  • 矢塚-尊氏が挙兵の際、願文とともに鏑矢を供えたと言われる塚。
  • 旗立楊-旗揚げした際、足利氏の二引両の旗を掲げたと言われる楊(やなぎ)。
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