大谷吉継 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 場所と歴史をわかりやすく簡単に解説! Mon, 06 Nov 2023 00:00:30 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.2.5 https://rekishidou.com/wp-content/uploads/cropped-kofun-32x32.jpeg 大谷吉継 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 32 32 関ケ原古戦場 https://rekishidou.com/sekigahara/ https://rekishidou.com/sekigahara/#respond Tue, 23 Feb 2016 04:04:17 +0000 http://rekishidou.com/?p=1864 慶長5年9月15日(1600年10月21日)、岐阜県関ケ原町で行われた天下分け目の戦い。日本史上最大規模の戦闘となった中心地。

歴史・概略

見どころ・おすすめ

  • 周辺一帯には、戦闘に参加した大名の陣跡が点在している。
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山崎合戦古戦場(山崎の戦い) https://rekishidou.com/yamazakikosenjo/ https://rekishidou.com/yamazakikosenjo/#respond Fri, 27 May 2016 02:02:14 +0000 http://rekishidou.com/?p=3630 京都の山崎で羽柴秀吉軍が明智光秀軍を破った「山崎の戦い」が行われた地。

歴史・概略

  • 天正10年(1582年)、明智光秀が京都本能寺において主君である織田信長を討ち取ることに成功。この「本能寺の変」の知らせを聞いて、すぐさま備中高松城より軍を引き返した羽柴秀吉軍(中国大返し)と光秀軍が、この山崎の地で激突した。
  • 山崎は京都のすぐ西側にあり、大阪や西国とを結ぶ交通の要衝であるだけでなく、川と山に挟まれた戦略的にも非常に重要な場所であった。光秀はこの場所の出口(東側)に陣取って秀吉軍の各個撃破を画策したとみられる。
  • 南北に流れる円明寺川(現・小泉川)を挟んで西側に秀吉軍約3万6千、東側に光秀軍約1万5千が対峙した。ちょうど石碑の辺りで両軍が激しく衝突したとみられるが、戦闘が始まると光秀軍は戦力に勝る秀吉軍に次第に押され、わずか1時間半ほどで秀吉軍の勝利に終わったという。
  • 光秀はこの後、一旦は後方の勝竜寺城に逃げ帰るが、戦略的に不利と見て居城の坂本城を目指した。しかしその途中、落ち武者狩りに遭って命を落とすこととなった。
  • 「山崎の合戦」前後の出来事
    <天正10年>
    6月 2日 本能寺の変
    6月 6日 秀吉、備中高松城より引き上げ(中国大返し)(日付は諸説あり)
    6月13日 山崎の合戦
    6月13日 光秀、戦いに敗れ勝龍寺城へ帰城
    6月13日 光秀、坂本城へ逃げる途中で絶命
    6月14日 坂本城落城
    6月15日 安土城本丸焼失
    6月27日 清須会議

見どころ・おすすめ

  • この場所では円明寺川(現・小泉川)の様子や天王山、明智光秀または斎藤利三の陣とされる境野1号墳を眺めることができる。
  • 山崎から長岡京にかけて周辺には「山崎の合戦」に関連する史跡が点在しているので、同時に回るのがおすすめ。1日で全部を回り切るのは結構大変かもしれないが、合戦のスケール感が掴める。
  • 天王山中腹の旗立松からは合戦場所周辺を俯瞰して見ることができる。

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木幡山伏見城跡 https://rekishidou.com/fushimijo-2/ https://rekishidou.com/fushimijo-2/#respond Tue, 23 Jul 2019 01:15:18 +0000 http://rekishidou.com/?p=1294 京都府京都市にあった安土桃山時代から江戸時代初期の平山城。

歴史・概略

大阪と京都を水運で結ぶ伏見の地に豊臣秀吉が築城した城。「関ケ原の戦い」の際には激しい戦闘も行われた。先に築城された指月伏見城(しげつふしみじょう)と区別するため、木幡山伏見城とも呼ばれる。他に桃山城とも呼ばれる。

  • 築城:文禄5年(1596年)
  • 廃城:元和9年(1623年)
  • 築城主:豊臣秀吉
  • 構造:梯郭式・平山城
  • 主な城主:豊臣氏・徳川氏
  • 文禄5年(1596年)、それまで豊臣秀吉が居城としていた指月伏見城が慶長伏見地震によって壊滅的な被害を受けたため、そこから少し離れた木幡山(こはたやま)に新たな城の築城を開始。
    その際、指月伏見城のかなりの部分が再利用され工事は急ピッチで進められた。
  • 慶長2年(1597年)、伏見城が完成。
  • 慶長3年(1598年)、秀吉が伏見城内で死去。
  • 慶長5年(1600年)、関ケ原の戦い」の前哨戦として、西軍が徳川家の家臣・鳥居元忠が守る伏見城を攻撃し、1か月以上の戦いの末に落城。この戦いで建物のほとんどが焼失したと思われる。
  • 慶長6年(1601年)、徳川家康により、伏見城の再建が開始。普請奉行は城造りの名人として知られる藤堂高虎
  • 慶長8年(1603年)、家康が、伏見城内で将軍宣下を受ける。この時をもって江戸幕府の開始とされる。
  • 慶長10年(1605年)、徳川秀忠が、伏見城内で将軍宣下を受ける。
  • 元和9年(1623年)、徳川家光が、伏見城内で将軍宣下を受ける。
  • 元和9年(1623年)、廃城。これ以後、伏見奉行所の管理下に置かれ幕末まで立ち入りが制限された。
  • 本丸跡付近は明治天皇陵となっており、現在立ち入りが禁止されている。
  • 花畑曲輪跡には、遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」の施設として、徳川時代の天守をモデルにした模擬天守が建てられた。しかし、現在は遊園地が閉園してしまったため、天守への立ち入りはできない状況となっている。

見どころ・おすすめ

  • 模擬天守は現在立ち入り禁止となっており、外から眺めることしかできない。
  • 周辺の伏見城遺構としては、北堀跡と言われる北堀公園や伏見城武家地 黒田長政下屋敷跡参考地、桃山東小学校内の復元石垣などがあり、御香宮神社の表門は伏見城大手門の移築とされているので、そちらも覗いてみるといい。
  • JR桃山駅近くには、木幡山伏見城が築城される以前に使用された指月伏見城の遺構が残されているので、そちらも見てみるといい。

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忍城址公園 https://rekishidou.com/oshijo/ https://rekishidou.com/oshijo/#respond Wed, 24 Feb 2016 01:06:47 +0000 http://rekishidou.com/?p=1889 埼玉県行田市にあった江戸時代の忍藩藩庁がおかれた城。

歴史・概略

豊臣秀吉による小田原攻め(小田原征伐)」の際には、城代として城を預かっていた成田長親(なりた・ながちか)が、石田三成を総大将とする約10倍の兵力に対して籠城戦を展開した。三成は城がなかなか落ちない状況を変えるべく大掛かりな水攻めを実行したがそれにも失敗、結局先に小田原本城が落城するまで落城することはなかった。

このことを扱った小説『のぼうの城』(和田竜著)のヒットにより一躍脚光を浴びることとなった。

  • 読み:おしじょう
  • 築城:文明10年(1478年)頃
  • 廃城:明治4年(1871年)
  • 築城主:成田正等・顕泰
  • 構造:平城
  • 主な城主:成田氏・松平氏
  • 関東七名城
  • 文明10年(1478年)頃、成田正等顕泰により築城
  • 天正18年(1590年)、小田原攻めにより開城
  • 文禄元年(1592年)、松平忠吉入城
  • 寛永10年(1633年)、松平信綱入城
  • 寛永16年(1639年)、阿部忠秋入城
  • 文政6年(1823年)、松平忠堯入城
  • 明治4年(1871年)、廃城
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