戦国時代最大のクーデターといわれる「本能寺の変」を起こした明智光秀最期の地。
歴史・概略
- 天正10年6月2日(1582年6月21日)、京都本能寺において坂本城主の明智光秀が主君の織田信長を襲撃、同時に二条御所においても信長の嫡男で織田家当主であった織田信忠を討ち取って、天下から織田家を排除することに成功した。
- しかし、それからわずか11日後の6月13日(西暦7月2日)、その報を聞き約200Km離れた備中高松城より驚異的なスピードで押し寄せた羽柴秀吉の軍と明智軍は、京都の西にある山崎において戦闘となった(山崎の戦い)。
光秀は頼りにしていた細川藤孝や筒井順慶、摂津衆などの協力が得られず、ほぼ「本能寺の変」当時の戦力1万3千程度のまま戦闘に突入せざるを得なかった。一方の秀吉は、神戸信孝(織田信孝)や摂津衆(高山右近・中川清秀・池田恒興)らを味方につけることに成功、一説には4万もの大軍に膨れ上がったともいわれ、光秀は圧倒的な戦力差を前にあっけなく敗北した。 - 光秀は山崎での敗北後、後方の勝竜寺城に入った。しかし、ここで籠城戦を戦うには不向きとして本拠の坂本城へと向かうが、その途中の小栗栖(おぐるす)付近の竹藪に伏せていた落ち武者狩りから竹槍で襲われ致命傷を受けたという。
そこから馬で逃走した光秀ではあったが、最後を悟って自刃、部下に自身の遺体と首を隠させたといわれる。 - ただ、襲撃された場所について山科や醍醐といった記述はあるものの、確実にこの場所といった特定する資料はない。襲った人物についても、落ち武者狩りではなく小栗栖を本拠とする飯田氏によって討ち取られたとする説もある。
- 石碑の30メートルほど先の場所に明智藪と書かれた木札がある。
見どころ・おすすめ
- 1Kmほど北側に光秀の胴を埋めたといわれる明智光秀胴塚があるので合わせて回るのがおすすめ。
関連動画
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史跡情報
地図 |
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【場所】 京都府京都市伏見区小栗栖小阪町 【付近の史跡】
[ 北東・約1.2km ] 明智光秀胴塚
[ 南東・約1.4km ] 平重衡塚
[ 南・約1.5km ] 宇治陵35号墳(藤原時平の墓)
[ 西・約1.7km ] 伏見城武家地 黒田長政下屋敷跡参考地
[ 南・約1.7km ] 宇治陵34号墳(赤塚・伝 藤原冬嗣夫妻墓所)
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主な施設 |
石碑・案内 |
利用時間 |
常時 |
定休日 |
無休 |
料金 |
無料 |
交通 |
【電車】 ・地下鉄「石田」駅から約1Km 【バス】 ・醍醐コミュニティバス「南小栗栖」バス停 ・京阪バス「南小栗栖」バス停 【マイカー】 ・名神高速「京都東IC」から約6Km |