内藤昌豊 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 場所と歴史をわかりやすく簡単に解説! Mon, 18 Sep 2023 03:24:54 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.2.5 https://rekishidou.com/wp-content/uploads/cropped-kofun-32x32.jpeg 内藤昌豊 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 32 32 長篠役設楽原決戦場 https://rekishidou.com/shitaragahara/ https://rekishidou.com/shitaragahara/#respond Mon, 18 Jan 2016 11:05:42 +0000 http://bng2.com/rekinavi/?p=485 天正3年(1575年)、父・武田信玄の跡を継いだ武田勝頼と、織田・徳川連合軍が奥三河の長篠において衝突し、武田軍が大敗を喫した「長篠の戦い」が起こった場所。「長篠役設楽原決戦場」の碑が立つ。

歴史・概略

  • 長篠城の西側、設楽原(したらがはら)を南北に流れる連吾川を挟んで両軍が布陣した。織田信長は武田軍を迎え撃つため陣地を構築し馬防柵を設置、信長は当時としては大量の鉄砲を持ち込んで鉄砲隊を組織した。
    天正3年5月21日(1575年6月29日)、戦いが始まると「三段撃ち」の新戦法を使って、向かってくる武田の軍勢に次々と玉を撃ち込んで、勝利に導いたとされる。
  • ただ、本当に「三段撃ち」のような戦法が取られたのかについては異論もあり、史実ではないとする意見もある。
  • 「長篠の戦い」におけるおもな出来事
    <天正3年>
    5月 1日 武田軍、長篠城を取り囲む
    5月14日 鳥居強右衛門、救援を要請するため城内を抜けだす
    5月15日 強右衛門、岡崎城に到着し織田信長、徳川家康と面会
    5月16日 強右衛門、武田軍に捕縛され処刑される
    5月18日 織田・徳川軍着陣
    5月20日 鳶ヶ巣山砦に奇襲
    5月21日 設楽ヶ原の戦い

見どころ・おすすめ

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三方ヶ原古戦場 https://rekishidou.com/mikatagahara/ https://rekishidou.com/mikatagahara/#respond Sun, 27 Dec 2015 10:28:32 +0000 http://bng2.com/rekinavi/?p=482 戦国時代末期、西に侵攻を開始した武田信玄とそれを守る隣国の徳川家康との間に起きた戦闘の地。

歴史・概略

見どころ・おすすめ

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八幡原史跡公園(川中島の戦い) https://rekishidou.com/kawanakajima/ https://rekishidou.com/kawanakajima/#respond Sun, 27 Dec 2015 01:03:49 +0000 http://bng2.com/rekinavi/?p=432 越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄が北信濃で攻防を繰り広げた「川中島の戦い八幡原の戦い)」の際、この場所に信玄が本陣を置いたとされる。

歴史・概略

  • 「川中島の戦い」は最初の対陣より10年以上、5度にわたって行われ、中でも4度目の「八幡原の戦い」では激しい戦闘となり、両軍ともにかなりの死傷者が出た。
  • 武田軍は啄木鳥戦法により妻女山に布陣する上杉軍の背後を突き、本隊と挟み撃ちにする計画を立てたが失敗、八幡原ですでに待ち構えていた上杉軍と武田本隊が戦闘となった。始めは上杉軍が優勢であったが、武田の別動隊が到着すると、形勢は逆転し上杉軍は撤退した。
  • この戦闘により信玄を支え続けた弟の武田信繁や軍師の山本勘助らが戦死した。
  • 「第四次川中島の戦い」における動き
    8月14日【上杉】春日山城を出陣
    8月15日【上杉】善光寺に着陣
    8月16日【上杉】妻女山に布陣
    8月18日【武田】甲府を出陣
    8月24日【武田】茶臼山に布陣
    8月29日【武田】海津城へ入る
    9月 9日【武田】軍議で啄木鳥戦法を決定する
    9月10日【武田】武田の別動隊が妻女山を攻撃するために移動
    9月10日【上杉】八幡原に移動
    9月10日【武田】武田の別動隊が空になった妻女山に到着しすぐに山を降りる
    9月10日【武田・上杉】八幡原で待ち伏せていた上杉隊が武田本隊と激突
    9月10日【武田】武田の別動隊が八幡原に到着
    9月10日【上杉】退却
  • 「川中島の戦い」における戦闘・対陣
    1553年 布施の戦い
    1555年 犀川の戦い
    1557年 上野原の戦い
    1561年 八幡原の戦い
    1554年 塩崎の対陣
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箕輪城跡 https://rekishidou.com/minowajo/ https://rekishidou.com/minowajo/#respond Sat, 24 Feb 2018 02:25:16 +0000 http://rekishidou.com/?p=4348 群馬県高崎市にあった戦国時代の城。
武田氏や織田氏、北条氏、徳川氏らの支配を受けた城で滝川一益や徳川四天王のひとり井伊直政が入ったことでも知られる。

歴史・概略

  • 築城:永正9年(1512年)
  • 廃城:慶長3年(1598年)
  • 築城主:長野業尚
  • 構造:梯郭式・平山城
  • 主な城主:滝川一益・北条氏邦・井伊直政など
  • 日本100名城
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松本城 https://rekishidou.com/matsumotojo/ https://rekishidou.com/matsumotojo/#respond Sat, 19 Dec 2015 13:30:14 +0000 http://bng2.com/rekinavi/?p=92 長野県松本市にある城。現存12天守のうちのひとつ

歴史・概略

  • 築城:永正元年(1504年)
  • 廃城:明治4年(1871年)
  • 築城主:小笠原貞朝
  • 構造:梯郭式/輪郭式・平城
  • 主な城主: 小笠原氏・石川氏・越前松平氏・堀田氏・水野氏・戸田松平氏
  • 日本100名城
  • 国宝(天守5棟)
  • 天守は中心をなす大天守のほか乾小天守、渡り櫓、辰巳附櫓、月見櫓の5棟からなり、黒漆喰の黒い色が特徴的である。大天守は5重6階の建物で高さは約30メートルある。大天守、渡り櫓、および乾小天守の3棟は戦国時代に築かれ、残りの辰巳附櫓、月見櫓の2棟が江戸時代に建てられたとされる。
  • 永正元年(1504年)、信濃守護家である小笠原氏によって深志城が築城されたのが始まり。
  • 天文19年(1550年)、甲斐の武田氏の信濃侵攻を受け落城。城代として武田家重臣・馬場信春(ばば・のぶはる)が置かれた。
  • 永禄9年(1566年)までの間に同じく武田家重臣の内藤昌豊(ないとう・まさとよ)が城代に入る。
  • 天正10年(1582年)、武田氏滅亡後は織田配下となり木曾義昌(きそ・よしまさ)に預けられるが、「本能寺の変」で信長が亡くなると旧武田領を巡って争いとなり上杉氏の援助により小笠原洞雪斎(おがさわら・どうせつさい)が深志城を奪還した。しかし今度は徳川家康の力を借りて小笠原貞慶(おがさわら・さだよし)が奪還し、このとき松本城と改名された。
  • 天正18年(1590年)、徳川氏の関東移封に伴い豊臣秀吉配下の石川数正(いしかわ・かずまさ)が入城。
  • 文禄2年(1593年)、天守築造。現在見られる天守はこの頃のものと言われる。
  • 慶長18(1613年)、小笠原氏が入封。
  • 元和3(1617年)、戸田松平氏が入封。
  • 寛永10年(1633年)、越前松平氏が入封。
  • 寛永15年(1638年)、堀田氏が入封。
  • 寛永19年(1642年)、水野氏が入封。
  • 享保11年(1726年)、戸田松平氏が再び入封。これ以降明治維新まで戸田松平氏が藩主を務める。
  • 昭和27年(1952年)、国宝に指定

見どころ・おすすめ

  • 天守-国宝天守。現存12天守のひとつ。
  • 黒門・太鼓門-復元門。
  • 松本市立博物館-松本の街や松本城に関する展示館。
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内藤昌豊の墓(長篠の戦い) https://rekishidou.com/naitomasatoyohaka/ https://rekishidou.com/naitomasatoyohaka/#respond Sat, 09 Apr 2016 01:20:33 +0000 http://rekishidou.com/?p=2901 織田・徳川連合軍と武田軍との間で起こった「長篠の戦い」で討死した内藤昌豊の墓。

歴史・概略

  • 【内藤昌豊(ないとう・まさとよ)】大永2年(1522年)-天正3年(1575年)
    馬場信春山県昌景高坂昌信とともに甲斐武田氏を支えた武田四天王のひとり。信玄が亡くなった後は子の武田勝頼に仕えた。ほかに工藤源左衛門大尉・内藤修理亮・内藤昌秀の名がある。
  • 武田氏長篠城攻略のための出陣で「長篠の戦い」が勃発。昌豊は開戦前に開かれた軍議の中で他の重臣たちとともに総大将の武田勝頼に対して撤退を進言したとされる。しかし、勝頼は開戦することを決め、昌豊ら重臣たちは死を覚悟して決戦に挑んで設楽ヶ原で両軍は激突した。
    その結果、武田軍は織田軍が築いた土塁と馬防柵に阻まれ敗走、昌豊勝頼退却のために踏みとどまり討たれて亡くなった。
  • 戦いの際には武田軍の総大将である勝頼がこの場で指揮を執ったとされ、武田勝頼公指揮の地碑が立てられている。

見どころ・おすすめ

  • 周辺には「長篠の戦い」に関する史跡が点在しているので、まとめて回るのがおすすめ。
  • 新城市設楽原歴史資料館では「長篠の戦い」や火縄銃に関しての資料が展示がしてある。
  • 3Kmほど東には、この戦いのきっかけとなった長篠城がある。

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