鳥居強右衛門磔死之址(長篠の戦い) | 場所と地図 – 歴史のあと

鳥居強右衛門磔死之址(長篠の戦い)

鳥居強右衛門磔死之址 墓・慰霊碑
鳥居強右衛門磔死之址
ジャンル:墓・慰霊碑/古戦場
史跡年代:安土桃山時代

武田軍と織田・徳川連合軍が戦った「長篠の戦い」の前哨戦となる長篠城攻城戦において、長篠城奥平家臣の鳥居強右衛門が武田軍によって磔(はりつけ)にされた場所。

歴史・概略

  • 長篠城(ながしのじょう)は奥三河にある城で徳川氏と武田氏の間で服属をたびたび変えていた。「長篠の戦い」開戦時点の支配は徳川氏で、城主は奥平信昌
  • 天正3年(1575年)、三河進出を目論んだ武田勝頼が長篠城に侵攻、大軍に取り囲まれ長篠城は落城寸前まで追い込まれてしまう。そのため、長篠城主の奥平信昌は家臣の鳥居強右衛門(とりい・すねえもん)を呼び、徳川家康に対して窮状を訴えるよう密命を出した。
    強右衛門は密かに城を脱出し無事に岡崎城に到着、家康に援軍を要請した。しかし、使命を果たした強右衛門が長篠城へ帰る途中、武田軍に捕縛されてしまう。
  • 武田軍は長篠城から見える位置に強右衛門を磔にし、「援軍は来ない」と言えば助けると言ったが、強右衛門は「援軍は来る」と叫び城の士気は上がった。しかし強右衛門は怒った武田軍によってその場で殺害されてしまった。
  • このおよそ10日ほど後、長篠にやってきた織田・徳川連合軍と武田軍が激突、武田軍は大敗北を喫することとなった(長篠の戦い)

見どころ・おすすめ

史跡情報

地図
【場所】
愛知県新城市有海
主な施設
石碑
利用時間
常時
定休日
無休
料金
無料
交通
【電車】
・JR「鳥居」駅から約0.6Km

【マイカー】
・新東名高速「新城IC」から約3Km
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