藤原頼通 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 場所と歴史をわかりやすく簡単に解説! Sat, 14 Oct 2023 01:36:37 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.2.5 https://rekishidou.com/wp-content/uploads/cropped-kofun-32x32.jpeg 藤原頼通 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 32 32 平等院(藤原道長別邸) https://rekishidou.com/byodoin/ https://rekishidou.com/byodoin/#respond Thu, 22 Oct 2020 08:40:02 +0000 https://rekishidou.com/?p=9334 京都府宇治市にある藤原氏ゆかりの仏教寺院。特に平安時代さながらの景観を見せる鳳凰堂は、10円玉やお札の図柄としても利用されるなど、京都を代表する観光スポットのひとつとなっている。

歴史・概略

極楽浄土の思想を取り入れた庭園は浄土庭園と呼ばれ、洛中の法成寺や平泉の毛越寺など平安時代から鎌倉時代にかけて多く作られた。ただ、平安時代に造られた庭・堂宇が残っている場所はほとんどなく、大変貴重な場所となっている。

  • 国宝(鳳凰堂・鳳凰像・仏像・壁画など)
  • 世界遺産
  • 現在はどこの宗派にも属してない単立寺院。

見どころ・おすすめ

  • 鳳凰堂(阿弥陀堂)-平安時代の姿をそのまま残す建物は平安絵巻そのもの。
  • 源頼政の墓-源平合戦において平等院で自刃した源頼政の墓。
  • 扇の芝-源頼政が自刃した場所とされる。
  • ミュージアム鳳翔館-国宝や重要文化財などの展示を行う博物館。
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宇治陵 https://rekishidou.com/ujiryo/ https://rekishidou.com/ujiryo/#respond Fri, 12 May 2023 05:11:59 +0000 https://rekishidou.com/?p=12218 京都府宇治市にある古墳群および平安時代の藤原氏一族の墳墓。そのひとつである1号墳で、宇治陵の総遥拝所ともなっている。

歴史・概略

  • 宇治陵(うじりょう・うじのみささぎ)は南北約1.8Km、東西約0.9Kmの範囲に広がる古墳・陵墓の総称。古墳時代の円墳や前方後円墳、平安時代藤原北家一族やそこから入内した女性、その皇子など300以上の陵墓が含まれる。
  • 明治10年(1877年)、宮内庁が17陵3墓を木幡陵に指定、現在は宇治陵となり37個所が宮内庁の管理下に置かれている。それぞれ1号墳から37号墳までの番号が付けられており、この1号墳は宇治陵の中央付近にあたる。
  • ただ陵墓の被葬者は特定されておらず、それぞれ誰が眠っているかは不明。被葬者とされている人物が宇治陵とはまったく別の場所に埋葬されている可能性すらある。いちおう32号墳が藤原道長、34号墳が藤原冬嗣、35号墳が藤原時平、36号墳が藤原基経であるといわれている。
  • 宮内庁の立て札には20名(17陵3墓)の名が記されている。
    (陵)宇多天皇女御中宮 温子
    (陵)醍醐天皇皇后 穏子
    (陵)村上天皇皇后 安子
    (陵)冷泉天皇女御贈皇太后 懐子
    (陵)冷泉天皇女御贈皇太后 超子
    (陵)円融天皇皇后 遵子
    (陵)円融天皇皇后 媓子
    (陵)円融天皇女御尊称皇太后 詮子
    (陵)一条天皇皇后 彰子
    (陵)三条天皇皇后 娍子
    (陵)三条天皇皇后 妍子
    (陵)後一条天皇皇后 威子
    (陵)後朱雀天皇即位前妃贈皇太后 嬉子
    (陵)後冷泉天皇皇后 寛子
    (陵)後冷泉天皇皇后 歓子
    (陵)後三条天皇即位前妃贈皇太后 茂子
    (陵)堀河天皇女御贈皇太后 苡子
    (墓)宇多天皇皇子 敦実親王
    (墓)冷泉天皇皇子 敦道親王
    (墓)後朱雀天皇女御准后 藤原生子
  • 宇治陵宮内庁立札

    宇治陵1号墳に掲げられている宮内庁の立札

  • 墳墓の西側入り口付近には藤原氏塋域と書かれた石碑が立てられている。塋域(えいいき)とは墓所のことであり、ここには藤原氏8名の名が刻まれている。
    閑院贈太政大臣 冬嗣
    昭宣公関白 基経
    本院贈太政大臣 時平
    法興院摂政 兼家
    南院関白 道隆
    法成寺関白 道長
    宇治関白 頼通
    後宇治関白 師實(師実)
  • 藤原氏塋域碑

    宇治陵1号墳前にある藤原氏塋域碑

見どころ・おすすめ

  • 藤原氏塋域碑の裏面に「伝寛弘2年造立浄妙寺堂桂礎石 木幡区供与石塔婆共」との記述があり、真相は不明だが寛弘2年(1005年)に道長によって建立された浄妙寺の礎石を利用したということらしい。
  • 周辺にはその浄妙寺跡のほか、1号から37号までの宇治陵がある。

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高陽院邸跡 https://rekishidou.com/kayanointei-2/ https://rekishidou.com/kayanointei-2/#respond Mon, 31 Oct 2022 11:48:53 +0000 https://rekishidou.com/?p=10521 平安時代から鎌倉時代にかけての藤原氏の邸宅跡、および里内裏跡。

歴史・概略

  • 高陽院(かやのいん)平安時代中期の関白・藤原頼通(ふじわら・よりみち/道長の長男)がおもな拠点とした屋敷である。ほかに「賀陽院」とも表記される。
  • 平安時代初期、この付近には桓武天皇の皇子・賀陽親王(かやしんのう)の邸宅があった。その後幾人かの所有者を経た後、この地を気に入った頼通保安元年(1021年)に寝殿造りの屋敷を造営した。敷地は2町四方(約250m四方)にも及ぶ広大なものであった。
    発掘調査では約140メートルという巨大な池の跡も発見されており、屋敷の豪華絢爛さが裏付けられている。
  • 頼道の引退後は里内裏となり、後冷泉天皇以後5代に渡って御所として使われた。
  • 鎌倉時代初期、後鳥羽上皇が譲位した後の院御所とした。
  • 貞応2年(1223年)、放火により焼失。この焼失を最後に再建されることはなかった。

見どころ・おすすめ

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高陽院邸跡 https://rekishidou.com/kayanointei/ https://rekishidou.com/kayanointei/#respond Thu, 16 Apr 2020 02:15:32 +0000 https://rekishidou.com/?p=10517 平安時代から鎌倉時代にかけての藤原氏の邸宅、および御所跡。

歴史・概略

見どころ・おすすめ

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花山院邸跡(京都御苑) https://rekishidou.com/kazanintei/ https://rekishidou.com/kazanintei/#respond Thu, 02 Apr 2020 00:44:12 +0000 http://rekishidou.com/?p=7257 平安時代から明治に至るまで存在した藤原氏の邸宅跡、および御所跡。

歴史・概略

見どころ・おすすめ

  • かつて存在していた宮家や公家屋敷の多くは、一部を残してほとんどが撤去されており、今は一年中草花が楽しめる公園として整備されている。
  • 京都御苑内は平安時代から幕末に至る屋敷跡が点在し、いたるところに説明書きの駒札が立てられているので、それを巡るだけでもかなり楽しめる。

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法成寺跡(藤原道長創建) https://rekishidou.com/hojoji/ https://rekishidou.com/hojoji/#comments Tue, 15 Mar 2016 06:20:50 +0000 http://rekishidou.com/?p=1072 法成寺(ほうじょうじ)は平安時代から鎌倉時代にかけて、京都にあった仏教寺院。栄華を極めた藤原道長が創建し、最後を迎えた場所である。

歴史・概略

  • 碑文「従是東北 法成寺址」
    京都鴨川の西岸、この石碑の北側2町四方以上に及んだ。
  • 寛仁3年(1019年)に出家した藤原道長が自邸である土御門邸(つちみかどてい)の東隣に九体阿弥陀堂の建立を発願、翌年に落慶した。創建当時は無量寿院と称している。
  • 以後も次々と堂宇の整備を行っており、鴨川から見える大伽藍の姿は宇治にある平等院のモデルになったともいわれている。まさに当時の道長の権力の大きさを表していたといえる。
  • この寺院は京極御堂とも呼ばれ、道長が「御堂関白(みどうかんぱく)」と呼ばれるきっかけともなった。
  • 治安2年(1022年)、寺名を法成寺に改める。
  • 万寿4年(1028年)、道長が阿弥陀堂において死去。享年62歳。
  • 天喜元年(1053年)、道長の嫡子・藤原頼通(ふじわら・よりみち)によって平等院鳳凰堂が建てられる。同じく浄土式庭園であった法成寺をモデルに造られたといわれる。
  • 承保元年(1074年)、道長の娘で一条天皇の中宮として後一条天皇後朱雀天皇を産み道長の権力基盤を作った藤原彰子(上東門院)が阿弥陀堂において死去。享年87歳。
  • 道長の死後も新たな堂宇が建てられるなどしばらくは繁栄が続いた。その後寺院は度々焼失するなどの被害を受けその度に再建されていったが、鎌倉時代になり公家から武士へと権力が移り、それに合わせて藤原氏の力が衰えていくと被災後の再建はされなくなり廃れてしまった。
  • 貞和5年/正平4年(1349年)、足利直義高師直が政権内で対立し師直と弟の高師泰が挙兵。この付近に布陣し直義が逃げ込んだ足利尊氏の屋敷を取り囲んだ。後に和解が成立するも政権は分裂「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」へと発展した。

見どころ・おすすめ

  • ここは石碑のみなので京都御苑に行ったついでにでも回るのがよいかと。

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