高台院 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 場所と歴史をわかりやすく簡単に解説! Wed, 03 May 2023 02:00:04 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.2.5 https://rekishidou.com/wp-content/uploads/cropped-kofun-32x32.jpeg 高台院 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 32 32 大阪城公園 https://rekishidou.com/osakajo/ https://rekishidou.com/osakajo/#respond Sat, 19 Dec 2015 09:22:22 +0000 http://bng2.com/rekinavi/?p=12 大阪府大阪市にある城。

歴史・概略

大阪城(おおさかじょう)は、天正11年(1583年)羽柴秀吉(後の豊臣秀吉によって築城され、その後秀吉政権の本拠地となった。築城時の総奉行は黒田官兵衛で縄張りも行った。城の北側に大川が流れる天然の要害で、築城以前には石山本願寺が建っていた。別名金城、または錦城ともいう。

秀吉の死後、遺児である豊臣秀頼が政権を引き継いだが、関ケ原の戦いを経て江戸幕府を開いた徳川家康の率いる大軍に攻められ落城した。その後、江戸幕府により大掛かりな改修が行われ、豊臣時代の遺構は土の中へと消えた。現在残っている櫓や石垣、縄張りのほとんどは江戸期のものである。

天守は豊臣時代と徳川時代に築かれたがいずれも焼失し、今ある天守は昭和になってから市民の寄付によって再建された。下から4層目までは徳川時代風の漆喰の白い壁、5層目は豊臣時代風に黒い壁に金箔で虎などを描くなどしている天守は、今や大阪のシンボルとなっている。

豊臣時代大阪城復元模型

豊臣時代大阪城復元模型(大阪城天守閣)


徳川時代大阪城復元模型

徳川時代大阪城復元模型(大阪城天守閣)

  • 築城:天正11年(1583年)
  • 廃城:明治元年(1868年)
  • 築城主:豊臣秀吉
  • 構造:平城・輪郭式
  • 日本100名城
  • 重要文化財(大手門・多門櫓・千貫櫓・乾櫓など)
  • 天正11年(1583年)、羽柴秀吉(豊臣秀吉)により石山本願寺跡地に築城。工事はほかに天正14年(1586年)文禄3年(1594年)慶長3年(1598年)など数度に渡って行われた。
  • 天正14年(1586年)、大阪城内において徳川家康秀吉に対し諸大名が列するなか臣従を誓った。
  • 慶長5年(1600年)、石田三成が挙兵三成が城内にいる大名家の人たちを拘束。このとき細川ガラシャは人質となることを拒否して自害。
  • 慶長8年(1603年)、徳川秀忠の娘・千姫秀頼に輿入れ。
  • 慶長19年(1614年)、大坂冬の陣が起こる。
  • 慶長20年(1615年)、大坂夏の陣が起こる。
  • 寛永6年(1629年)、大修築完了。
  • 寛文5年(1665年)、落雷により天守焼失。
  • 慶応2年(1866年)、長州征伐で上洛していた将軍・徳川家茂が大阪城で病没。
  • 慶応3年(1868年)、徳川慶喜が京都二条城から大阪城に退去。
  • 慶応4年(1868年)、鳥羽伏見の戦い」により慶喜が江戸へ退去。
  • 昭和6年(1931年)、復興天守閣完成。
  • 「大阪の陣」のおもな出来事
    <慶長19年>7月 方広寺梵鐘の銘文事件/10月 豊臣方・徳川方開戦準備/11月 木津川口の戦い/11月 今福の戦い/11月 鴫野の戦い/11月 博労淵の戦い/11月 野田・福島の戦い/12月 真田丸の戦い/12月 豊臣方と徳川方が和議/12月 堀の埋め立て開始
    <慶長20年>3月 豊臣家の移封を要求/4月 再び開戦準備/4月 樫井の戦い/5月 道明寺の戦い(後藤又兵衛討死)/5月 八尾・若江の戦い/5月 天王寺・岡山の戦い(真田幸村討死)/5月 千姫、大阪城より救出/5月 大阪城落城(秀頼・淀君自害)

見どころ・おすすめ

  • 天守閣-豊臣秀吉と大阪城に関する博物館。
  • 門・櫓・蔵-大手門や多聞櫓、千貫櫓、乾櫓、金蔵など城内には数多くの建物が残されている。
  • 豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地碑-大坂の陣」で豊臣秀頼淀殿が自刃した場所と伝わる。
  • 豊国神社-豊臣秀吉を祀る神社。境内には巨大な豊臣秀吉像が立つ。
  • 石垣-石垣にはところどころ巨石が使われており、これらを巡ってみるのも面白い。
  • 庭園-桜や梅など季節ごとの花が咲き誇る。
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長浜城跡 https://rekishidou.com/nagahamajo/ https://rekishidou.com/nagahamajo/#respond Sun, 20 Mar 2016 03:55:22 +0000 http://rekishidou.com/?p=2621 滋賀県長浜市にあった城で、羽柴秀吉が初めて城主となったことで知られる。

歴史・概略

織田信長の義理の弟・浅井長政が本拠とする小谷城攻略において武功を立てた秀吉は、浅井氏の旧領に入った。当時今浜と呼ばれたこの地に新しい城を築城、信長の一字をもらい長浜城と名付けた。

また、このころから秀吉はそれまでの木下姓を改めて羽柴姓を名乗り始めた。

  • 築城:天正元年(1573年)
  • 廃城:慶長20年(1615年)
  • 築城主:羽柴秀吉
  • 構造:平城
  • 主な城主:羽柴氏・柴田氏・山内氏・内藤氏
  • 日本100名城
  • 天正10年(1582年)、本能寺の変」によって信長が亡くなると明智光秀に味方した阿閉貞征(あつじ・さだゆき)が長浜城を占拠、ねねや城の者たちは近隣の寺などに避難した。しかし、このすぐ後に起った「山崎の戦い」で明智軍は敗北、阿閉氏は処刑された。
    「山崎の戦い」の後に行われた清須会議の話し合いの中で、長浜城は柴田勝家の支配下となり、勝家の甥である柴田勝豊が入った。
  • 天正10年末(1582年)、勝家秀吉の仲は次第に悪化、長浜城は秀吉の攻撃を受け降伏した。その後「賤ヶ岳の戦い」で柴田氏が討ち取られると、山内一豊が入った。
  • 天正13年11月29日(1586年1月18日)、天正大地震が発生。城は全壊、一豊の娘も犠牲となった。
  • 天正18年(1590年)、徳川家康が関東に移封され、一豊が家康の旧領・遠江国掛川に転封。
  • 慶長11年(1606年)、徳川譜代・内藤信成が入府。
  • 元和元年(1615年)、内藤氏が摂津国高槻に転封。長浜城は廃城となった。
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圓徳院(北政所隠棲地) https://rekishidou.com/entokuin/ https://rekishidou.com/entokuin/#respond Mon, 13 Jul 2020 08:38:06 +0000 https://rekishidou.com/?p=11552 京都市東山にある臨済宗寺院。豊臣秀吉の正室・おね(北政所・高台院)が秀吉の没後19年間を過ごした地であり、終焉の地とされる。

歴史・概略

  • 慶長3年(1598年)、秀吉が亡くなり、翌年北政所秀吉が晩年に建てた京都新城(現在の京都仙洞御所)に移り住んだ。その後、北政所秀吉の菩提を弔うため京都東山に新たな寺院(高台寺)を建立、慶長10年(1605年)、門前に屋敷を建てて移り住んだ。このとき屋敷には伏見城の化粧御殿と前庭が移築され、後に小堀遠州(こぼり・えんしゅう)によって改修されて現在に至っている。
  • 寛永元年9月6日(1624年10月17日)、高台院が死去。享年77?
  • 寛永9年(1632年)、備中国足守藩主・木下利房高台院の甥)が木下家の菩提寺として開く。

見どころ・おすすめ

  • 割引も利くので高台寺と合わせて回るのがおすすめ。
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仙洞御所・大宮御所・豊臣秀吉京都新城跡(京都御苑) https://rekishidou.com/sentogosyo/ https://rekishidou.com/sentogosyo/#respond Mon, 17 Apr 2017 01:14:12 +0000 http://rekishidou.com/?p=2859 京都府京都市京都御苑内にある江戸時代初期に造営された御所。豊臣秀吉が晩年に築いた京都新城跡地でもある。

歴史・概略

  • 元々この場所には、豊臣秀吉が関白の政庁兼邸宅として建てた聚楽第を破却した後に、その代わりとした邸宅があった。この屋敷は太閤上京屋敷や太閤御屋敷、太閤御所、京の城などと呼ばれ、現代では京都新城と呼ぶのが一般的である。
  • この場所は、御堂関白と呼ばれた平安時代の公卿・藤原道長の屋敷であった土御門殿があったあたりであり、秀吉はあえてこの場所を選んだともいわれる。
  • 慶長2年(1597年)の正月に工事が開始され、半年ほどで完成した後は秀吉の嫡男・豊臣秀頼が移り住んでいる。ただし、翌年の慶長3年(1598年)秀吉が没した後、遺命により秀頼大阪城に移ったため、使用された期間はわずかである。
  • 慶長4年(1599年)、秀吉の正室・おね(高台院が大阪城西の丸を徳川家康に明け渡し、この屋敷に移り住んだ。そのため高台院屋敷とも呼ばれる。
  • 慶長5年(1600年)、関ケ原の戦い」の際、朝廷に近いこの場所が戦闘に利用されるのを防ぐため、屋敷の石垣や堀などが徹底的に破壊された。
  • 慶長10年(1605年)、高台院秀吉を弔うため京都東山に高台寺を建立、門前に屋敷を建て移り住んだ。
  • 寛永4年(1627年)、後水尾天皇が譲位の意向を示した際に、京都新城跡地に仙洞御所(せんとうごしょ)が造営された。仙洞御所とは譲位後の天皇の御所を意味する。
    建物は安政元年(1854年)の火災によって焼失し、その後は再建はされず庭園のみが残った。
  • 大宮御所は仙洞御所の北側に位置し、後水尾天皇の中宮であった東福門院のために造営されたことに始まる。今の建物は慶応3年(1867年)に造営されたものである。
  • 京都新城に関しては、使用期間がごくわずかであったこと、破壊されてしまったこと、跡地に仙洞御所が建てられたことなどから、遺構はほとんどない。さらに資料も少なく、その範囲や縄張りなども分かっていないが、最近石垣遺構が発掘され新たな発見に期待が持たれている。

見どころ・おすすめ

  • かつて存在していた宮家や公家屋敷の多くは、一部を残してほとんどが撤去されており、今は一年中草花が楽しめる公園として整備されている。
  • 京都御苑内は平安時代から幕末に至る屋敷跡が点在し、いたるところに説明書きの駒札が立てられているので、それを巡るだけでもかなり楽しめる。

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