光厳天皇 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 場所と歴史をわかりやすく簡単に解説! Sat, 14 Oct 2023 01:49:59 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.2.5 https://rekishidou.com/wp-content/uploads/cropped-kofun-32x32.jpeg 光厳天皇 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 32 32 京都御所(京都御苑) https://rekishidou.com/kyotogosyo/ https://rekishidou.com/kyotogosyo/#respond Sun, 27 Mar 2016 10:18:32 +0000 http://rekishidou.com/?p=2811 京都府京都市にある天皇家の御所。明治天皇による東京遷都が行われる以前、数百年もの間ここを御所としていた。

歴史・概略

  • 桓武天皇(かんむてんのう)が平安京に遷都したときには、ここから2キロほど西に行った千本通りの辺りに、平安京の中心を南北に貫く朱雀大路があり、丸太町通りが重なる辺りに内裏が置かれていた。
  • この付近に内裏が遷ったのは、鎌倉時代の末期光厳天皇(こうごんてんのう)が里内裏を置いた以降のことで、室町時代以降に内裏として定着した。その後整備や再建を繰り返し、現在の内裏は安政2年(1855年)に再建されたものである。
  • 東京遷都後は施設の荒廃が進んでいたが、その後整備され大正天皇昭和天皇の即位の礼も京都御所にて行われた。

見どころ・おすすめ

  • かつて存在していた宮家や公家屋敷の多くは、一部を残してほとんどが撤去されており、今は一年中草花が楽しめる公園として整備されている。
  • 京都御苑内は平安時代から幕末に至る屋敷跡が点在し、いたるところに説明書きの駒札が立てられているので、それを巡るだけでもかなり楽しめる。
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二條富小路内裏址(建武の新政 の地) https://rekishidou.com/nijotominokoji/ https://rekishidou.com/nijotominokoji/#respond Sat, 28 Mar 2020 09:21:55 +0000 https://rekishidou.com/?p=9951 京都にあった鎌倉時代の公家の邸宅跡、および内裏跡。

歴史・概略

見どころ・おすすめ

  • 石碑のみで特に有名な史跡ということもないので、京都御苑のついでにでも足を運んでみてはどうでしょう。

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持明院仙洞御所跡 https://rekishidou.com/jimyointei/ https://rekishidou.com/jimyointei/#respond Tue, 20 Aug 2019 01:37:15 +0000 http://rekishidou.com/?p=7133 平安時代から室町時代にかけて藤原氏の邸宅、および天皇退位後の御所として使われた屋敷跡

歴史・概略

  • 持明院(じみょういん)平安時代後期、陸奥守・鎮守府将軍に任ぜられた藤原基頼(ふじわら・もとより)が、屋敷を構えたことに始まる。持明院の名は、基頼が邸内に建立した持仏堂の名に由来する。
  • 基頼の子・藤原通基が持明院を改築して安楽光院(安楽行院)と改名、持明院は邸宅の名として残り、以降は家号として使われた。
  • 鎌倉時代、高倉天皇の第二皇子・守貞親王(後高倉院)が持明院基家の娘・陳子を妃とし、持明院を御所とした。「承久の乱」の後、二人の間に生まれた皇子・後堀河天皇が即位、幼い天皇に代わって守貞親王がここで院政を行っている。
  • その後、後堀河天皇四条天皇に譲位すると、持明院を御所として院政を行った。後に後嵯峨天皇後深草天皇も御所とし、後深草天皇以降、皇統が別れた後は後深草天皇の子孫である伏見上皇後伏見上皇花園上皇光厳上皇光明上皇崇光天皇が御所とした。この皇統は使われた御所から、持明院統と呼ばれ室町時代初期には北朝となった。
  • 文和2年/正平8年(1353年)、火災により焼失。安楽光院は再建されるが屋敷は再建されなかった。

見どころ・おすすめ

  • 石碑のみで特に何があるわけでもないので「応仁の乱」か聚楽第の史跡巡りや京都御苑のついでに組み込むのがよいかと。

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東寺 https://rekishidou.com/toji/ https://rekishidou.com/toji/#respond Thu, 28 Apr 2016 02:20:53 +0000 http://bng2.com/rekinavi/?p=351 平安京遷都より続く京都にある真言宗寺院で教王護国寺(きょうおうごこくじ)とも呼ばれる。高野山を開いた平安時代の高僧空海ゆかりの寺として知られている。

歴史・概略

  • 平安京造営の際、都の守りとして建てられた国立の官寺。平安京の南側中央に設置された正門ともいえる羅城門(らしょうもん)の東側に東寺(とうじ)、西側に西寺(さいじ)がそれぞれ建てられた。それから数十年後の弘仁14年(823年)、東寺は空海(弘法大師)に下賜され真言密教の根本道場となった。

  • 西寺跡

    基壇が残る西寺跡(京都府京都市)

  • 1200年に及ぶ長い歴史の中では衰退していた時期もあったが、多くの有力者によって支えられ、現在では京都観光の名所となっている。
  • 国宝(金堂・五重塔・大師堂・蓮花門・観智院客殿)
  • 世界遺産(古都京都の文化財)
  • おもな出来事
    ・796年 建立
    ・823年 真言密教根本道場となる
    ・1221年 京方の三浦胤義が立て籠り幕府軍と交戦(承久の乱
    ・1336年 足利尊氏新田義貞が交戦(延元の乱
    ・1336年 光厳上皇が仮の御所とする
    ・1467年 応仁の乱大内政弘が陣を置く
    ・1486年 火災により大部分を焼失
    ・1603年 豊臣秀頼の寄進により金堂建立
    ・1644年 徳川家光の寄進により五重塔建立
    ・1994年 世界遺産に認定
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二条殿御池跡 https://rekishidou.com/nijodono/ https://rekishidou.com/nijodono/#respond Thu, 15 Aug 2019 02:44:19 +0000 http://rekishidou.com/?p=5921 京都にあった皇族や公家の邸宅跡。安土桃山時代には織田信長の屋敷としても使われ、「本能寺の変」の戦闘が起こった場所でもある。

歴史・概略

  • この場所は、平安時代より皇族や公家の邸宅として利用され、鎌倉時代中期正嘉元年(1257年)には、後嵯峨上皇が御所を造営している。邸内には大きな池があり、後の時代に「龍躍池」と命名されている。
  • その後、藤原氏一門で五摂家のひとつである二条家が邸宅とした。
  • 建武3年(1336年)、「建武の新政」から離反した足利尊氏が、持明院統の光厳上皇と弟の豊仁親王(光明天皇)を担ぎ出し、この邸内で即位させた。これにより朝廷が南朝と北朝に分裂、以降60年に渡って日本を二分する時代が始まった(南北朝動乱)
  • 天正4年(1576年)、屋敷の景色を気に入った織田信長が上洛時の宿所としてこれを改修、「二条御新造」「二条城」などと呼ばれた。
  • 天正7年(1579年)、屋敷を正親町天皇の皇子・誠仁親王(さねひとしんのう)に献上し、以降は「二条新御所」などと呼ばれている。
  • 天正10年6月2日(1582年6月21日)、「本能寺の変」が発生。このとき隣接地の妙覚寺には信長の嫡男・織田信忠がおり、信長の救援のため本能寺へ向かおうとした。しかし、すでに本能寺が落ちたことを知り、自身は二条新御所に立て籠もった。その後、信忠は明智軍に囲まれ徹底抗戦するが、二条新御所、妙覚寺ともに焼け落ちた。
  • 跡地には信忠の菩提を弔うため、羽柴秀吉によって大雲院が創建されたが、すぐに秀吉による京都整備が始まり移転されている。
  • 現在、屋敷を思わせるものは何一つ残っていないが、周辺からは御池通りの名の由来ともなった池の遺構が見つかっている。

見どころ・おすすめ

関連動画

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