後嵯峨天皇 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 場所と歴史をわかりやすく簡単に解説! Sat, 14 Oct 2023 01:49:59 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.2.5 https://rekishidou.com/wp-content/uploads/cropped-kofun-32x32.jpeg 後嵯峨天皇 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 32 32 閑院内裏跡 https://rekishidou.com/kanindairi/ https://rekishidou.com/kanindairi/#respond Fri, 16 Aug 2019 00:50:16 +0000 https://rekishidou.com/?p=9031 京都府京都市にあった平安時代から鎌倉時代にかけての藤原氏の屋敷、および里内裏跡。

歴史・概略

見どころ・おすすめ

  • この石碑のすぐ横に閑院内裏跡地に建てられた妙顕寺城跡の碑がある。閑院内裏跡の説明書きもそちらに立てられている。
  • なかなかこの石碑だけを目指すということはないと思うので堀河天皇里内裏跡東三条殿跡高松殿跡など付近の内裏跡をまとめて巡るか二条城のついでにでも回るのがよいかと。

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持明院仙洞御所跡 https://rekishidou.com/jimyointei/ https://rekishidou.com/jimyointei/#respond Tue, 20 Aug 2019 01:37:15 +0000 http://rekishidou.com/?p=7133 平安時代から室町時代にかけて藤原氏の邸宅、および天皇退位後の御所として使われた屋敷跡

歴史・概略

  • 持明院(じみょういん)平安時代後期、陸奥守・鎮守府将軍に任ぜられた藤原基頼(ふじわら・もとより)が、屋敷を構えたことに始まる。持明院の名は、基頼が邸内に建立した持仏堂の名に由来する。
  • 基頼の子・藤原通基が持明院を改築して安楽光院(安楽行院)と改名、持明院は邸宅の名として残り、以降は家号として使われた。
  • 鎌倉時代、高倉天皇の第二皇子・守貞親王(後高倉院)が持明院基家の娘・陳子を妃とし、持明院を御所とした。「承久の乱」の後、二人の間に生まれた皇子・後堀河天皇が即位、幼い天皇に代わって守貞親王がここで院政を行っている。
  • その後、後堀河天皇四条天皇に譲位すると、持明院を御所として院政を行った。後に後嵯峨天皇後深草天皇も御所とし、後深草天皇以降、皇統が別れた後は後深草天皇の子孫である伏見上皇後伏見上皇花園上皇光厳上皇光明上皇崇光天皇が御所とした。この皇統は使われた御所から、持明院統と呼ばれ室町時代初期には北朝となった。
  • 文和2年/正平8年(1353年)、火災により焼失。安楽光院は再建されるが屋敷は再建されなかった。

見どころ・おすすめ

  • 石碑のみで特に何があるわけでもないので「応仁の乱」か聚楽第の史跡巡りや京都御苑のついでに組み込むのがよいかと。

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南禅寺 https://rekishidou.com/nanzenji/ https://rekishidou.com/nanzenji/#respond Fri, 14 Apr 2017 01:27:50 +0000 http://rekishidou.com/?p=4134 京都市東山にある鎌倉時代より続く臨済宗の禅寺。

歴史・概略

見どころ・おすすめ

  • 南禅院:南禅寺の別院。離宮禅林寺殿のあった場所で南禅寺発祥の地とされる。
  • 金地院:南禅寺の塔頭。慶長10年(1605年)に以心崇伝によって移築された。
  • 三門:重要文化財。寛永5年(1628年)に藤堂高虎によって再建。あくまで芝居の話だが石川五右衛門の「絶景かな!絶景かな!」の場面が有名。
  • 水路閣:明治23年(1890年)に琵琶湖疏水の分線として完成。レンガ造りの水道橋は寺の雰囲気を壊すことなく独特の景観を作り出している。
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大炊御門万里小路殿址 https://rekishidou.com/oinomikado/ https://rekishidou.com/oinomikado/#respond Wed, 15 Apr 2020 03:54:12 +0000 https://rekishidou.com/?p=9949 平安時代から鎌倉時代にかけて使われた公卿の邸宅跡、および御所跡。

歴史・概略

  • 平安時代中期、但馬守・源高房がこの場所で邸宅を営む。屋敷が大炊御門大路(おおいのみかどおおじ)・万里小路(までのこうじ)・冷泉小路(れいぜいこうじ)にあったことから大炊御門万里小路殿(おおいのみかどまでのこうじどの)、または冷泉万里小路殿(れいぜいまでのこうじどの)と呼ばれる。
  • 延久5年(1073年)、後三条天皇が病により当屋敷に移ったのち、そのまま崩御した。
  • 平安時代後期、公卿・源能俊の屋敷となり、白河上皇が仮の御所とした。
  • 鎌倉時代には、後嵯峨上皇が領し、そのあと亀山天皇後宇多天皇へと継承され大覚寺統の里内裏として使われた。
  • 大炊御門万里小路殿は火災によってたびたび焼失、再建を繰り返したが、元応元年(1319年)の焼失を最後に再建がされなかった。

見どころ・おすすめ

  • 石碑のみで特に有名な史跡ということもない。京都御苑のついでに足を運ぶくらいでいいと思う。
  • 同時代に使われた御所として二條富小路内裏址がこの南にある。

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二条殿御池跡 https://rekishidou.com/nijodono/ https://rekishidou.com/nijodono/#respond Thu, 15 Aug 2019 02:44:19 +0000 http://rekishidou.com/?p=5921 京都にあった皇族や公家の邸宅跡。安土桃山時代には織田信長の屋敷としても使われ、「本能寺の変」の戦闘が起こった場所でもある。

歴史・概略

  • この場所は、平安時代より皇族や公家の邸宅として利用され、鎌倉時代中期正嘉元年(1257年)には、後嵯峨上皇が御所を造営している。邸内には大きな池があり、後の時代に「龍躍池」と命名されている。
  • その後、藤原氏一門で五摂家のひとつである二条家が邸宅とした。
  • 建武3年(1336年)、「建武の新政」から離反した足利尊氏が、持明院統の光厳上皇と弟の豊仁親王(光明天皇)を担ぎ出し、この邸内で即位させた。これにより朝廷が南朝と北朝に分裂、以降60年に渡って日本を二分する時代が始まった(南北朝動乱)
  • 天正4年(1576年)、屋敷の景色を気に入った織田信長が上洛時の宿所としてこれを改修、「二条御新造」「二条城」などと呼ばれた。
  • 天正7年(1579年)、屋敷を正親町天皇の皇子・誠仁親王(さねひとしんのう)に献上し、以降は「二条新御所」などと呼ばれている。
  • 天正10年6月2日(1582年6月21日)、「本能寺の変」が発生。このとき隣接地の妙覚寺には信長の嫡男・織田信忠がおり、信長の救援のため本能寺へ向かおうとした。しかし、すでに本能寺が落ちたことを知り、自身は二条新御所に立て籠もった。その後、信忠は明智軍に囲まれ徹底抗戦するが、二条新御所、妙覚寺ともに焼け落ちた。
  • 跡地には信忠の菩提を弔うため、羽柴秀吉によって大雲院が創建されたが、すぐに秀吉による京都整備が始まり移転されている。
  • 現在、屋敷を思わせるものは何一つ残っていないが、周辺からは御池通りの名の由来ともなった池の遺構が見つかっている。

見どころ・おすすめ

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