【出演】松本潤・岡田准一・ムロツヨシ・有村架純ほか
戦国の三英傑のひとり徳川家康。目の前の敵をかわすべきか迎え撃つべきか、誰を選び誰を捨てるのか、強国に挟まれた小国の人質から天下人へと至る長い道のり。ひとつ間違えれば命を失うだけでなく国までも亡んでしまう決断の連続。果たして家康はどうする!?
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徳川家康ざっくり年表
年号 | 出来事 |
---|---|
天文11年12月(1543年1月) | 竹千代(徳川家康)誕生 |
天文16年(1547年) | 織田家の人質として尾張へ送られる |
天文18年(1549年) | 今川家の人質として駿府へ送られる |
天文24年(1555年) | 元服 松平元信を名乗る(後に元康に改名) |
弘治3年(1557年) | 瀬名(築山御前)と結婚 |
永禄3年(1560年) | 桶狭間の戦い 岡崎城入城 家康を名乗る |
永禄5年(1562年) | 清州同盟 |
永禄6年(1563年) | 三河一向一揆 |
永禄9年(1566年) | 徳川氏に改姓 |
永禄11年(1568年) | 武田氏とともに今川領へ侵攻(今川氏滅亡) 遠江国を支配下に置く |
元亀元年(1570年) | 金ヶ崎の退き口 姉川の戦い 浜松城へ移る |
元亀3年(1572年) | 武田信玄侵攻(西上作戦)開始 三方ヶ原の戦い |
元亀4年/天正元年(1573年) | 武田信玄撤退(信玄死去) |
天正2年(1574年) | 高天神城の戦い(第一次) |
天正3年(1575年) | 長篠の戦い |
天正7年(1579年) | 築山御前殺害 松平信康切腹 |
天正9年(1581年) | 高天神城の戦い(第二次) |
天正10年(1582年) | 武田征伐(武田家滅亡) 駿河国を支配下に置く 本能寺の変(織田信長自刃) 神君伊賀越え 天正壬午の乱 甲斐国・信濃国を支配下に置く |
天正12年(1584年) | 小牧・長久手の戦い |
天正13年(1585年) | 上田合戦 |
天正14年(1586年) | 秀吉に臣従 駿府城へ移る |
天正18年(1590年) | 小田原攻め(北条氏滅亡) 関東移封 江戸城へ移る |
文禄5年/慶長元年(1596年) | 内大臣就任 |
慶長3年(1598年) | 秀吉死去 |
慶長4年(1599年) | 前田利家死去 |
慶長5年(1600年) | 関ヶ原の戦い |
慶長8年(1603年) | 征夷大将軍就任 |
慶長10年(1605年) | 将軍辞職 徳川秀忠征夷大将軍就任 |
慶長12年(1607年) | 駿府城へ移る |
慶長19年(1614年) | 大坂冬の陣 |
慶長20年/元和元年(1615年) | 大坂夏の陣(豊臣家滅亡) 武家諸法度制定 一国一城令 |
元和2年(1616年) | 太政大臣就任 死去 |
※本文中は面倒なので徳川家康に統一
家康の城
岡崎城
【場所】愛知県岡崎市
【説明】永禄3年(1560年)~元亀元年(1570年)の居城。
松平氏の本拠地で家康が誕生した城でもある。桶狭間の戦い後の独立から浜松城に移るまで本拠地とし、あとは長男松平信康に譲っている。
浜松城
【場所】静岡県浜松市
【説明】元亀元年(1570年)~天正14年(1586年)の居城。
岡崎城から移したのち駿府城へ移すまで本拠地とした。
駿府城
【場所】静岡県静岡市
【説明】天正14年(1586年)~天正18年(1590年)の居城。
浜松城から移したのち関東移封を受けて江戸城に移るまで本拠地とした。晩年には再び本拠地とし、ここから大御所政治を行った。
江戸城
【場所】東京都千代田区
【説明】天正18年(1590年)~慶長12年(1607年)の居城。
北条氏滅亡後の関東移封から駿府城へ移るまで本拠地とした。家康の将軍就任後は徳川家の本拠地となり、幕府のシンボルとして機能した。
徳川軍の戦い
桶狭間の戦い
【交戦】織田信長 VS 今川義元
【日付】永禄3年(1560年)5月
【場所】愛知県名古屋市・豊明市付近
【説明】桶狭間の戦いにおいて、今川軍の先方として大高城に兵糧を届けた。しかし大将の義元が討ち取られたため撤退。この戦いは家康が独立の道を進む転機となった。
三河一向一揆
【交戦】徳川家康 VS 一向宗勢力 戦地のひとつ小豆坂古戦場(愛知県岡崎市)
【日付】永禄6年(1563年)~ 永禄7年(1564年)
【場所】家康の領国・西三河(愛知県岡崎市・安城市付近)
【説明】三河一向一揆は独立から間もない家康の領国で起こった大規模な一揆。後に三方ヶ原の戦いと神君伊賀越えと合わせて家康の三大危機と呼ばれるほど窮地に追い込まれた。
金ヶ崎の退き口
【交戦】織田信長 VS 朝倉義景 撤退戦が行われた金ヶ崎古戦場(福井県敦賀市)
【日付】永禄13年(1570年)4月
【場所】越前朝倉領および若狭
【説明】金ヶ崎の退き口は信長が朝倉領侵攻中に浅井氏の裏切りにより起こった撤退戦。信長の同盟者であった家康は、このとき殿(しんがり)を務め信長の撤退を助けたとされる。しかし、これは後に書き換えられた功績ともいわれ、真偽は不明である。
姉川の戦い
【交戦】織田信長 VS 浅井長政・朝倉軍
【日付】元亀元年6月(1570年7月)
【場所】浅井領姉川とその付近(滋賀県長浜市・米原市)
【説明】姉川の戦いは金ヶ崎の退き口の直後に行われた戦闘。徳川軍の活躍により浅井・朝倉軍は敗走した。
三方ヶ原の戦い
【交戦】徳川軍・織田軍 VS 武田信玄
【日付】元亀3年12月22日(1573年1月25日)
【場所】静岡県浜松市
【説明】三方ヶ原の戦いは武田信玄が晩年に行った織田・徳川領侵攻(西上作戦)による戦いのひとつ。結果徳川・織田軍は大敗北、家康は命からがら浜松城に逃げ帰った。
高天神城の戦い
【交戦】徳川軍 VS 武田勝頼
【日付】天正2年(1574年)/天正9年(1581年)
【場所】静岡県掛川市
【説明】高天神城の戦いは徳川領内の遠江国高天神城を巡る戦いで、大きく2回行われている。天正2年(1574年)に武田軍に占領され、天正9年(1581年)に徳川軍が奪還した。特に2回目には武田勝頼が結果的に高天神城を見殺しにしたため、家臣が離れ滅亡に繋がったといわれる。
長篠の戦い(設楽原の戦い)
【交戦】徳川家康・織田信長 VS 武田勝頼
【日付】天正3年5月21日(1575年6月29日)
【場所】愛知県新城市
【説明】長篠の戦いは武田勝頼が徳川領だった奥三河長篠城に侵攻したことで始まった戦い。徳川・織田軍は大量の鉄砲で武田軍を圧倒、武田軍は多くの重臣を失い大敗北を喫した。
甲州征伐(武田征伐)
【交戦】織田信長・徳川家康・北条氏政 VS 武田勝頼
【日付】天正10年(1564年)2月 ~ 3月
【場所】武田領一帯(甲斐・信濃・駿河・上野)
【説明】甲州征伐は織田信長を中心に行った武田領への侵攻のことで、この戦いにより武田家は滅亡した。家康は駿河方面より侵攻し諸城を落としている。これにより家康は戦後駿河をもらいうけた。
天正壬午の乱
【交戦】徳川家康 VS 北条氏政
【日付】天正10年(1582年)6月 ~ 10月
【場所】武田旧領(甲斐・信濃・上野)
【説明】天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)とは本能寺の変後に空白地帯となった武田旧領を巡る争い。この争いで家康は信濃・甲斐を獲得、元の三河・遠江・駿河合わせて5か国を治める大大名にのし上がった。
乱の際、新府城(山梨県韮崎市)は家康の本陣とされた
小牧・長久手の戦い
【交戦】織田信雄・徳川家康 VS 羽柴秀吉(豊臣秀吉)
【日付】天正12年(1584年)3月 ~ 11月
【場所】尾張・美濃・伊勢など
【説明】小牧・長久手の戦いは信長亡き後、勢力を拡大し続ける羽柴秀吉に対し織田信雄と家康が手を組んで対抗した戦い。秀吉と家康の最初で最後の直接対決。半年に渡って抵抗を続けるも秀吉の大軍勢を前に最後は秀吉有利で講和した。
上田合戦
【交戦】徳川軍 VS 真田軍
【日付】天正13年(1585年)/慶長5年(1600年)
【場所】信濃上田城およびその周辺(長野県上田市)
【説明】上田合戦は信濃国上田・上野国沼田を領する真田氏と徳川軍の戦闘。戦いは大きく2度。天正13年(1585年)には領地を巡って真田氏が徳川氏より造反したことで徳川軍が侵攻、真田軍はこれを撃退した。2度目は関ケ原の戦い直前、西軍に与した真田氏が西へ向かう徳川軍本隊を足止め、これによって徳川軍本隊は本戦に遅参する失態を犯した。
小田原攻め(北条征伐)
【交戦】豊臣秀吉 VS 北条氏政
【日付】天正18年(1590年)2月 ~ 7月
【場所】北条氏領一帯(静岡県・神奈川県・埼玉県・群馬県など)
【説明】小田原攻め(北条征伐)は秀吉が行った関東の北条氏領への軍事侵攻のこと。秀吉は全国の大名を動員、この後東北も支配下に収め全国統一を果たした。家康は本隊として東海道を進み各攻城に参戦、北条氏降伏後は北条旧領へ領地替えとなった。
関ヶ原の戦い
【交戦】徳川家康 VS 石田三成
【日付】慶長5年9月15日(1600年10月21日)
【場所】岐阜県不破郡関ケ原町
【説明】関ヶ原の戦いは秀吉の死後起こった家康と反徳川の戦い。戦いは関ケ原に限らず地方をも巻き込み全国を二分しての戦いに波及した。この戦いに勝利した家康は征夷大将軍に任ぜられ名実ともに天下人となった。
両軍合わせて15万以上がぶつかった関ケ原古戦場(岐阜県不破郡関ケ原町)
大坂の陣
【交戦】徳川家康 VS 豊臣秀頼
【日付】慶長19年(1614年)/慶長20年(1615年)
【場所】大阪城およびその周辺(大阪府・奈良県)
【説明】大坂の陣は家康が晩年に行った豊臣家との戦い。戦いは講和を挟んで2度に渡って行われ、時期に因んで前半戦を「冬の陣」、後半戦を「夏の陣」と呼ぶ。この戦いで豊臣家は滅亡、家康没後の憂いを取り除いた。
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