豊臣秀次 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 場所と歴史をわかりやすく簡単に解説! Mon, 13 Mar 2023 00:29:59 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.2.5 https://rekishidou.com/wp-content/uploads/cropped-kofun-32x32.jpeg 豊臣秀次 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 32 32 小田原城 https://rekishidou.com/odawarajo/ https://rekishidou.com/odawarajo/#respond Mon, 25 Jan 2016 02:20:02 +0000 http://bng2.com/rekinavi/?p=457 神奈川県小田原市にあった城。江戸時代の小田原藩の藩庁。

歴史・概略

戦国時代、相模に進出してきた大森氏によって築城され、その後、後北条氏の祖となる伊勢盛時(北条早雲)によって奪われた。息子の北条氏綱の代になって以後は北条氏の居城となった。

関東の覇権を巡り上杉謙信武田信玄などから相次いで侵攻を受けるが、小田原城の堅固な構えを前にこれを防いだ。このことから難攻不落の城とも呼ばれた。

しかし、豊臣秀吉による「小田原攻め(小田原征伐)」の際にはおよそ20万の兵で取り囲まれ、その間に北条氏の支城は次々と落とされていった。そしてついに数か月後には降伏した。

  • 築城:応永24年(1417年)
  • 廃城:明治4年(1871年)
  • 築城主:大森頼春
  • 構造:不明
  • 主な城主:後北条氏・阿部氏・稲葉氏・大久保氏
  • 日本100名城
  • 15世紀中頃、大森氏が小田原城を築城
  • 明応4年(1495年)、北条早雲が城を奪う(もう少し後とする説もある)
  • 永禄4年(1561年)、上杉謙信が小田原城を攻める
  • 永禄12年(1569年)、武田信玄が小田原城を攻める
  • 天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めで北条氏滅亡
  • 明治4年(1871年)、廃城
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大内裏及聚楽第東濠跡 https://rekishidou.com/jurakudai-3/ https://rekishidou.com/jurakudai-3/#comments Mon, 14 Mar 2016 00:30:56 +0000 http://rekishidou.com/?p=1285 平安京の大内裏跡、および豊臣秀吉が京都に築いた邸宅・聚楽第跡。

歴史・概略

平安京の政庁であった大内裏の北東部分に当たる場所。

大内裏は平安時代初期の頃から官庁街として政治の中枢として機能した。しかし朝廷の衰退とともに次第に荒廃、跡地は内野と呼ばれ朝廷への遠慮もあってかその後も積極的に利用されることはなかった。

安土桃山時代になると、天下統一を目指す豊臣秀吉が京都の拠点として大内裏跡地に聚楽第(じゅらくてい・じゅらくだい)を築城した。しかし、竣工からわずか8年という短期間で破却されたため、聚楽第に関しての資料は乏しく、正確な位置すら分からない幻の城となっていた。

だが、この南向かいにあるハローワークの工事に伴って行われた発掘調査において、巨大な濠跡のほか数百点の金箔瓦を発見。後にそれらは聚楽第の遺構であることが確認された。

聚楽第は邸宅ではあるが本丸と西ノ丸・北ノ丸・南二ノ丸の曲輪を持ち、それぞれが水堀で区切られた平城の構造で天守をも備えていたといわれる。

この石碑の立っている場所は本丸を囲っていた濠の東側にあたり、ここから西に約300mのところにある「聚楽第址(本丸西濠跡)」碑までが本丸の範囲となる。

  • 築城:天正14年(1586年)
  • 廃城:文禄4年(1595年)
  • 築城主:豊臣秀吉
  • 構造:平城
  • 主な城主:豊臣秀吉・豊臣秀次

見どころ・おすすめ

  • 現在、目に見える聚楽第の遺構はほとんど残ってはいないが、周辺には聚楽第跡や武家屋敷跡などがかなり広範囲に存在している。それぞれ石碑も立てられているので、これらを巡ってみるのがおすすめ。
  • 大名に関する名前が町名に残っている場所も多く、これらを辿るのも面白い。

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清州城 https://rekishidou.com/kiyosujo/ https://rekishidou.com/kiyosujo/#respond Mon, 22 Feb 2016 10:27:41 +0000 http://bng2.com/rekinavi/?p=472 愛知県清須市に戦国時代から江戸時代初期にかけてあった城。

歴史・概略

応永12年(1405年)、尾張守護・斯波義重によって築城されたことに始まり、戦国時代には尾張国の中心として機能した。その後、織田信長が改修を加え、那古野城から移って居城とした。今川義元の尾張侵攻によって起こった「桶狭間の戦い」の際には、ここで幸若舞を舞ったあと出撃したといわれる。


桶狭間古戦場

桶狭間古戦場(愛知県名古屋市)

また「本能寺の変」で信長が家臣の明智光秀に討ち取られた後、織田家重臣の柴田勝家丹羽長秀羽柴秀吉池田恒興たちによって織田家の今後が話し合われた「清須会議」の場ともなった。

  • 築城:応永12年(1405年)
  • 廃城:慶長15年(1610年)
  • 築城主:斯波義重
  • 構造:平城
  • 主な城主:斯波氏・織田氏・豊臣氏・福島氏・徳川氏

見どころ・おすすめ

  • 天守-模擬天守。織田信長などに関する歴史の展示館。
  • 復元石垣-調査・発掘された石垣の復元展示。
  • 信長像-桶狭間の戦い」に向かう信長の姿を表した像。
  • 名古屋城の御深井丸西北隅櫓は清須城から移築されたものと伝わる。
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聚楽第跡(本丸西濠跡) https://rekishidou.com/jurakudai/ https://rekishidou.com/jurakudai/#respond Sun, 13 Mar 2016 11:22:58 +0000 http://bng2.com/rekinavi/?p=439 豊臣秀吉が京都に築いた邸宅・聚楽第跡。

歴史・概略

聚楽第(じゅらくてい・じゅらくだい)は、関白となった豊臣秀吉が京都に置いた政庁兼邸宅である。天正14年(1586年)、平安時代の内裏跡地に築城を開始、翌年完成した。完成後は大阪城より移り住み、本拠としている。

京都の拠点としてはそれまで妙顕寺城(みょうけんじじょう)があったが、聚楽第の完成により廃されている。

この石碑は本丸を囲っていた濠の西側の場所にあたる。そして、ここから東に約300mのところにある「聚楽第址」碑までが本丸の範囲となる。

聚楽第は本丸および南二ノ丸、西の丸、北の丸などの曲輪が築かれ、金箔瓦で飾られた天守をも備える豪華絢爛な城であったという。しかし完成からわずか8年後、関白職とともに聚楽第を譲った甥の豊臣秀次を追放、切腹に追い込んだ際に城は破却されてしまった。そのため、残っている資料が少なく、解明されていない点が多い。

  • 築城:天正14年(1586年)
  • 廃城:文禄4年(1595年)
  • 築城主:豊臣秀吉
  • 構造:平城
  • 主な城主:豊臣秀吉・豊臣秀次

見どころ・おすすめ

  • 現在、目に見える聚楽第の遺構はほとんど残っていない。聚楽第があった当時、周辺には武家屋敷などがかなり広範囲に存在しており、いろんな場所に聚楽第跡や武家屋敷跡の石碑が立てられているので、各所を巡ってみるのがおすすめ。
  • 大名に関する名前が町名に残っている場所も多く、これらを辿るのも面白い。

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豊臣秀次公一族終焉之地(瑞泉寺) https://rekishidou.com/zuisenji/ https://rekishidou.com/zuisenji/#respond Tue, 01 Mar 2016 11:44:54 +0000 http://rekishidou.com/?p=2139 京都木屋町にある浄土宗西山禅林寺派の寺。

歴史・概略

見どころ・おすすめ

  • 木屋町周辺は幕末の志士たちの活動の場として、寓居跡や事件現場となった場所が数多くあるので、まとめて回れる。

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聚楽第南外濠跡 https://rekishidou.com/jurakudai-4/ https://rekishidou.com/jurakudai-4/#respond Mon, 14 Mar 2016 01:45:41 +0000 http://rekishidou.com/?p=1289 豊臣秀吉が一時期本拠としていた京都・聚楽第の跡。

歴史・概略

聚楽第(じゅらくてい・じゅらくだい)は、関白に就任した豊臣秀吉が、かつての平安京大内裏跡に築城した政庁兼邸宅で、完成後は大阪城より移ってここを本拠とした。

この石碑の立つ場所は、聚楽第の南側を東西方向に伸びていた外堀部分にあたり、ここから松林寺の境内に向かっての落ち込みが堀の跡とされる。


豊臣秀吉妙顕寺城跡碑

豊臣秀吉が聚楽第以前に京都の拠点としていた妙顕寺城跡(京都府京都市)

聚楽第は秀吉が天下統一を果たしたのち、関白職を甥の豊臣秀次に譲ったときに秀次の城となった。しかし、秀吉から謀反の疑いをかけられ、秀次は切腹に追い込まれ城は破却されてしまった。

  • 築城:天正14年(1586年)
  • 廃城:文禄4年(1595年)
  • 築城主:豊臣秀吉
  • 構造:平城
  • 主な城主:豊臣秀吉・豊臣秀次

見どころ・おすすめ

  • 現在、目に見える聚楽第の遺構はほとんど残っていないが、周辺には聚楽第跡や武家屋敷跡などがかなり広範囲に存在し石碑も立てられているので、これらを巡ってみるのがおすすめ。
  • 周辺には大名に関する名前が町名に残っている場所も多く、これらを辿ってみるのも面白い。

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聚楽城鵲橋旧蹟 https://rekishidou.com/jurakudai-2/ https://rekishidou.com/jurakudai-2/#respond Mon, 14 Mar 2016 04:40:36 +0000 http://rekishidou.com/?p=1175 豊臣秀吉が関白として政務を執った聚楽第の跡地。

歴史・概略

聚楽第(じゅらくてい・じゅらくだい)は、豊臣秀吉が関白としての政務を果たすための拠点として、かつての平安京大内裏跡地に築城された。築城後は、大阪城より居を移し本拠地とした。瓦には金箔が施され、天守をも備えた豪華絢爛な城であったという。

石碑の立てられているこの場所は南二ノ丸の南東部分にあたり、濠には鵲橋(かささぎばし)が架かっていたとされている。


豊臣秀吉妙顕寺城跡碑

豊臣秀吉が聚楽第完成以前に京都における拠点としていた妙顕寺城跡(京都府京都市)

天正19年12月(1592年2月)、嫡男の鶴松を亡くした秀吉は甥の秀次に関白職を譲った。このとき秀次は聚楽第の城主となったが、後に秀吉に謀反の疑いをかけられ切腹、城は竣工からわずか8年という短い期間で破却されてしまった。

  • 築城:天正14年(1586年)
  • 廃城:文禄4年(1595年)
  • 築城主:豊臣秀吉
  • 構造:平城
  • 主な城主:豊臣秀吉・豊臣秀次

見どころ・おすすめ

  • 現在、目に見える聚楽第の遺構はほとんど残っていないが、周辺には聚楽第跡や武家屋敷跡などがかなり広範囲に存在し石碑も立てられているので、これらを巡ってみるのがおすすめ。
  • 大名に関する名前が町名に残っている場所も多く、これらを辿るのも面白い。

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山中城跡 https://rekishidou.com/yamanakajo/ https://rekishidou.com/yamanakajo/#respond Sun, 24 Jan 2016 11:15:36 +0000 http://bng2.com/rekinavi/?p=598 静岡県三島市にあった戦国時代末期の山城。

歴史・概略

戦国時代後期、小田原に本拠をおく北条氏康によって小田原城の西の防御を固めるための拠点として築城された山城。もともとは国境を接する武田氏上杉氏に対する備えであったという。

豊臣秀吉による「小田原攻め(小田原征伐)」の際には城を守る兵力の約17倍という圧倒的な兵力差で城を取り囲まれ、わずか半日で落城したといわれる。その後、北条氏の滅亡とともにすぐに廃城となったため、城の縄張りや、堀や土塁の構築法など、北条流の独特な築城術によって築かれた遺構がそのまま残っているという。

  • 築城:永禄年間(1558年~1570年)
  • 廃城:天正18年(1590年)
  • 築城主:北条氏康
  • 構造:山城
  • 主な城主:松田氏
  • 日本100名城
  • 永禄年間(1558年~1570年)、北条氏により築城
  • 天正17年(1589年)、小田原攻めに備えて改修
  • 天正18年(1590年)、小田原攻めにより落城
  • 天正18年(1590年)、廃城

見どころ・おすすめ

  • 小田原攻めで廃城になった後、利用もされず放置されていたので当時そのままの状態が保存されている。案内が豊富でかなり整備もされていて、とても見やすい。特に障子堀の独特な景観はこれだけでも訪れる価値あり。
  • 西側の眺望がすばらしい。富士山もどーんと見える。
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