「応仁の乱」における有力武将のひとり細川勝久の屋敷跡、および豊臣秀吉が京都に築いた聚楽第に上杉景勝が置いた屋敷跡とされる。
歴史・概略
- 【細川勝久】ほそかわ・かつひさ
- 【生没年】不明(室町時代中期の武将)
- 【官位】兵部大輔
- 【素性】室町幕府三管領家のひとつ細川家の一門で備中守護家 細川氏久の子。
- 勝久は「応仁の乱」において本家の細川勝元の指揮下に入り、いわゆる東軍として戦った武将。この東軍西軍は京都中心部を南北に流れる堀川を挟んで、おおよそ東西に陣営が別れていたことに由来する。勝久の屋敷は堀川の西、西軍陣地内にあり東軍から孤立していた状態であったため、西軍の攻撃を受け焼失した。
- それからおよそ120年後、関白に就任した豊臣秀吉が政務を行う場として、かつての大内裏跡地に聚楽第(じゅらくてい・じゅらくだい)を築城、付近一帯には大名屋敷が配置された。
ここは五大老の一人である上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)の屋敷跡で、景勝の官職名「弾正少弼(だんじょうしょうひつ)」から「弾正町」の町の名が残る。 - ただ、景勝邸ではなく浅野長政(弾正少弼)邸であったとする説もある。
- 【上杉景勝】うえすぎ・かげかつ
- 【生没年】弘治元年(1556年)- 元和9年(1623年)
- 【官位】弾正少弼・越後守・左近衛権少将・従三位・参議・近衛中将・権中納言など
- 【素性】越後国上田長尾家 長尾政景の二男。後に叔父の上杉謙信の養子となり家督を継ぐ。
見どころ・おすすめ
- やや離れるがこの北側には応仁の乱勃発地(上御霊神社)や相国寺、室町第跡、百々橋の礎石、山名宗全邸跡など応仁の乱に関連する史跡が多数存在している。
- 現在、目に見える聚楽第の遺構はほとんど残っていないが、周辺には聚楽第跡や武家屋敷跡などがかなり広範囲に存在し石碑も立てられているので、これらを巡ってみるのがおすすめ。
- 大名に関する名前が町名に残っている場所も多いので、これらを辿ってみるのも面白い。
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史跡情報
地図 |
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【場所】 京都府京都市上京区一条通黒門通上る 【付近の史跡】
[ 東・約0.1km ] 黒田如水邸跡(京都)
[ 南西・約0.1km ] 名和長年公殉節所(延元の乱)
[ 南西・約0.1km ] 一条院跡
[ 北東・約0.2km ] 千利休居士聚楽屋敷址
[ 北東・約0.2km ] 安倍晴明公居館之趾(晴明神社)
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主な施設 |
石碑のみ |
利用時間 |
常時 |
定休日 |
無休 |
料金 |
無料 |
交通 |
【電車】 ・地下鉄「今出川」駅から約1.1Km 【バス】 ・市バス「一条戻橋・晴明神社前」バス停 【マイカー】 ・名神高速「京都南IC」から約9Km |