聚楽第 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 場所と歴史をわかりやすく簡単に解説! Fri, 20 Oct 2023 04:27:19 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.2.5 https://rekishidou.com/wp-content/uploads/cropped-kofun-32x32.jpeg 聚楽第 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 32 32 大内裏及聚楽第東濠跡 https://rekishidou.com/jurakudai-3/ https://rekishidou.com/jurakudai-3/#comments Mon, 14 Mar 2016 00:30:56 +0000 http://rekishidou.com/?p=1285 平安京の大内裏跡、および豊臣秀吉が京都に築いた邸宅・聚楽第跡。

歴史・概略

平安京の政庁であった大内裏の北東部分に当たる場所。

大内裏は平安時代初期の頃から官庁街として政治の中枢として機能した。しかし朝廷の衰退とともに次第に荒廃、跡地は内野と呼ばれ朝廷への遠慮もあってかその後も積極的に利用されることはなかった。

安土桃山時代になると、天下統一を目指す豊臣秀吉が京都の拠点として大内裏跡地に聚楽第(じゅらくてい・じゅらくだい)を築城した。しかし、竣工からわずか8年という短期間で破却されたため、聚楽第に関しての資料は乏しく、正確な位置すら分からない幻の城となっていた。

だが、この南向かいにあるハローワークの工事に伴って行われた発掘調査において、巨大な濠跡のほか数百点の金箔瓦を発見。後にそれらは聚楽第の遺構であることが確認された。

聚楽第は邸宅ではあるが本丸と西ノ丸・北ノ丸・南二ノ丸の曲輪を持ち、それぞれが水堀で区切られた平城の構造で天守をも備えていたといわれる。

この石碑の立っている場所は本丸を囲っていた濠の東側にあたり、ここから西に約300mのところにある「聚楽第址(本丸西濠跡)」碑までが本丸の範囲となる。

  • 築城:天正14年(1586年)
  • 廃城:文禄4年(1595年)
  • 築城主:豊臣秀吉
  • 構造:平城
  • 主な城主:豊臣秀吉・豊臣秀次

見どころ・おすすめ

  • 現在、目に見える聚楽第の遺構はほとんど残ってはいないが、周辺には聚楽第跡や武家屋敷跡などがかなり広範囲に存在している。それぞれ石碑も立てられているので、これらを巡ってみるのがおすすめ。
  • 大名に関する名前が町名に残っている場所も多く、これらを辿るのも面白い。

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聚楽第跡(本丸西濠跡) https://rekishidou.com/jurakudai/ https://rekishidou.com/jurakudai/#respond Sun, 13 Mar 2016 11:22:58 +0000 http://bng2.com/rekinavi/?p=439 豊臣秀吉が京都に築いた邸宅・聚楽第跡。

歴史・概略

聚楽第(じゅらくてい・じゅらくだい)は、関白となった豊臣秀吉が京都に置いた政庁兼邸宅である。天正14年(1586年)、平安時代の内裏跡地に築城を開始、翌年完成した。完成後は大阪城より移り住み、本拠としている。

京都の拠点としてはそれまで妙顕寺城(みょうけんじじょう)があったが、聚楽第の完成により廃されている。

この石碑は本丸を囲っていた濠の西側の場所にあたる。そして、ここから東に約300mのところにある「聚楽第址」碑までが本丸の範囲となる。

聚楽第は本丸および南二ノ丸、西の丸、北の丸などの曲輪が築かれ、金箔瓦で飾られた天守をも備える豪華絢爛な城であったという。しかし完成からわずか8年後、関白職とともに聚楽第を譲った甥の豊臣秀次を追放、切腹に追い込んだ際に城は破却されてしまった。そのため、残っている資料が少なく、解明されていない点が多い。

  • 築城:天正14年(1586年)
  • 廃城:文禄4年(1595年)
  • 築城主:豊臣秀吉
  • 構造:平城
  • 主な城主:豊臣秀吉・豊臣秀次

見どころ・おすすめ

  • 現在、目に見える聚楽第の遺構はほとんど残っていない。聚楽第があった当時、周辺には武家屋敷などがかなり広範囲に存在しており、いろんな場所に聚楽第跡や武家屋敷跡の石碑が立てられているので、各所を巡ってみるのがおすすめ。
  • 大名に関する名前が町名に残っている場所も多く、これらを辿るのも面白い。

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応仁の乱洛中合戦勃発地・聚楽城 加藤清正邸・源頼光 一条邸・福岡藩邸・近衛邸跡 https://rekishidou.com/kiyomasatei/ https://rekishidou.com/kiyomasatei/#respond Sat, 26 Sep 2020 05:32:08 +0000 https://rekishidou.com/?p=9973 豊臣秀吉が天下を掌握した当時、京都に築いた聚楽第において加藤清正屋敷があったとされる場所。
この他にもいろんな時代の屋敷跡や戦跡として記録されている。

歴史・概略

  • 碑文
    「聚楽城 加藤清正邸跡伝承地」
    「此付近 応仁の乱 洛中合戦 勃発地」
    「藤原道綱母子 源頼光 一条邸跡」
    「筑前福岡黒田屋敷跡」
    「此北 近衛堀川屋敷跡」
  • 平安時代中期、摂政・関白・太政大臣であった藤原兼家の妻のひとりで蜻蛉日記を著した藤原道綱母(生没年・名前など詳細は不明)が住んでいた屋敷・一条邸があったとされる。その後は酒呑童子討伐で知られる武将・源頼光の屋敷ともなっている。
  • 室町時代中期、京都市街が焦土と化した「応仁の乱」において、洛中最初の合戦が起こった場所。東軍の京極持清はここから一条戻橋を渡り西軍と戦ったという。
  • 安土桃山時代、関白となった豊臣秀吉がこの付近を流れる堀川の西側に京における邸宅、兼政庁として聚楽第を築城、周辺には多くの大名屋敷が立ち並んだ。隣接地にある主計町の名から、ここは秀吉に近い加藤清正(主計頭・かずえのかみ)の屋敷があったとされている。
  • 江戸時代、筑前福岡藩の屋敷があった。
  • 江戸時代、この北側に藤原氏一族で五摂家のひとつ近衛家の屋敷があった。
    実は以前、この屋敷は薩長同盟が締結された小松帯刀の寓居とみられており、それを示す石碑も立てられていた。しかし、その後の新資料発見などで今は別の場所(小松帯刀寓居・御花畑屋敷跡・薩長同盟所縁地)とされ、その後石碑も新しく作り直されている。

見どころ・おすすめ

  • 平安時代中期に活躍した陰陽師・安倍晴明の居館跡であった晴明神社からすぐ近くなので、ついでに寄ってみればよいかと。
  • この周辺には聚楽第跡やその周りに建てられた大名屋敷跡が点在しているので、まとめて回るのがおすすめ。

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木村長門守重成公旧館地 https://rekishidou.com/shigenarikyukan/ https://rekishidou.com/shigenarikyukan/#respond Sat, 18 Mar 2017 01:18:16 +0000 http://rekishidou.com/?p=3295 豊臣秀吉が京都で政務を執るために築いた聚楽第近くにあった木村重成(きむら・しげなり)の屋敷跡。

歴史・概略

見どころ・おすすめ

  • 聚楽第に関する史跡はほとんど残っていないが、周辺には聚楽第跡碑や武家地跡碑、あるいは町名などが点在しているので、これらをまとめて回ってみるのがおすすめ。

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豊臣秀勝邸跡伝承地・平安宮内裏蘭林坊跡 https://rekishidou.com/hidekatsutei/ https://rekishidou.com/hidekatsutei/#respond Mon, 08 Aug 2016 03:28:30 +0000 http://rekishidou.com/?p=2416 平安京大内裏の蘭林坊(らんりんぼう)があった場所。また、豊臣秀吉聚楽第があった時代には豊臣秀勝の邸宅があったと推定されている。

歴史・概略

  • 延暦13年(794年)、桓武天皇(かんむてんのう)によって長岡京より遷都され、以来1000年に渡って日本の首都となった。この付近には都の中心である大内裏があり、その領域は東西1.2キロ、南北1.4キロに及んだ。大内裏内には天皇の居住区である内裏を始め、数多くの行政機関が立ち並んでおり、この場所は内裏にあたりその建物の一つ蘭林坊(大嘗祭に使用される物品の保管場所)があった。
  • 大内裏の建物は出火によって度々焼失し、その都度再建されてきたが、朝廷の衰えとともに次第に荒廃していった。周辺には大内裏の痕跡を示す碑が点在している。
  • また、のちに豊臣秀吉の時代になると関白となった秀吉の政庁兼邸宅・聚楽第(じゅらくだい・じゅらくてい)がこの付近に建てられた。聚楽第周辺には武家屋敷が立ち並び、ここには秀吉の姉の子で養子となった豊臣秀勝(とよとみ・ひでかつ)の邸宅があったとされる。

見どころ・おすすめ

  • 周辺には大内裏跡を示す石碑や案内板が数多く設置されているのでまとめて回るとよい。
  • 現在、目に見える聚楽第の遺構はほとんど残っていないが、周辺には聚楽第跡や武家屋敷跡などがかなり広範囲に存在し石碑も立てられているので、これらを巡ってみるのがおすすめ。
  • 大名に関する名前が町名に残っている場所も多く、これらを辿るのも面白い。

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千利休居士聚楽屋敷址 https://rekishidou.com/rikyuyashiki/ https://rekishidou.com/rikyuyashiki/#respond Sun, 13 Mar 2016 02:38:32 +0000 http://rekishidou.com/?p=2383 平安時代に活躍した陰陽師・安倍晴明を祀る晴明神社が建つ地は、かつて茶人千利休が屋敷を構えており、境内には当時茶湯に用いたとされる井戸が現存する。

歴史・概略

  • 天下統一を目指す豊臣秀吉が、本拠として京都の御所近くに聚楽第(じゅらくだい・じゅらくてい)を築城した。周辺には配下の大名たちが屋敷を構え、この場所には秀吉の側近として仕えた利休屋敷があった。
    千利休(せん・りきゅう)は茶の湯だけでなく、秀吉の弟の豊臣秀長とともに秀吉を支え、政治にも多大な影響力を持ったという。
  • しかし、次第に秀吉との関係が悪化していき、最後には切腹を命じられて当屋敷内で自害して果てた。享年70。
    利休の首はすぐ南の一条戻橋にさらされたという。

見どころ・おすすめ

  • 現在、目に見える聚楽第の遺構はほとんど残っていないが、周辺には聚楽第跡や武家屋敷跡などがかなり広範囲に存在し石碑も立てられているので、これらを巡ってみるのがおすすめ。
  • 大名に関する名前が町名に残っている場所も多く、これらを辿るのも面白い。

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聚楽第南外濠跡 https://rekishidou.com/jurakudai-4/ https://rekishidou.com/jurakudai-4/#respond Mon, 14 Mar 2016 01:45:41 +0000 http://rekishidou.com/?p=1289 豊臣秀吉が一時期本拠としていた京都・聚楽第の跡。

歴史・概略

聚楽第(じゅらくてい・じゅらくだい)は、関白に就任した豊臣秀吉が、かつての平安京大内裏跡に築城した政庁兼邸宅で、完成後は大阪城より移ってここを本拠とした。

この石碑の立つ場所は、聚楽第の南側を東西方向に伸びていた外堀部分にあたり、ここから松林寺の境内に向かっての落ち込みが堀の跡とされる。


豊臣秀吉妙顕寺城跡碑

豊臣秀吉が聚楽第以前に京都の拠点としていた妙顕寺城跡(京都府京都市)

聚楽第は秀吉が天下統一を果たしたのち、関白職を甥の豊臣秀次に譲ったときに秀次の城となった。しかし、秀吉から謀反の疑いをかけられ、秀次は切腹に追い込まれ城は破却されてしまった。

  • 築城:天正14年(1586年)
  • 廃城:文禄4年(1595年)
  • 築城主:豊臣秀吉
  • 構造:平城
  • 主な城主:豊臣秀吉・豊臣秀次

見どころ・おすすめ

  • 現在、目に見える聚楽第の遺構はほとんど残っていないが、周辺には聚楽第跡や武家屋敷跡などがかなり広範囲に存在し石碑も立てられているので、これらを巡ってみるのがおすすめ。
  • 周辺には大名に関する名前が町名に残っている場所も多く、これらを辿ってみるのも面白い。

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聚楽城上杉景勝屋敷跡・細川勝久屋敷跡 https://rekishidou.com/uesugiyashiki-2/ https://rekishidou.com/uesugiyashiki-2/#respond Sat, 12 Mar 2016 12:06:16 +0000 http://rekishidou.com/?p=1255 応仁の乱」における有力武将のひとり細川勝久の屋敷跡、および豊臣秀吉が京都に築いた聚楽第上杉景勝が置いた屋敷跡とされる。

歴史・概略

  • 【細川勝久】ほそかわ・かつひさ
  • 【生没年】不明(室町時代中期の武将)
  • 【官位】兵部大輔
  • 【素性】室町幕府三管領家のひとつ細川家の一門で備中守護家 細川氏久の子。
  • 勝久は「応仁の乱」において本家の細川勝元の指揮下に入り、いわゆる東軍として戦った武将。この東軍西軍は京都中心部を南北に流れる堀川を挟んで、おおよそ東西に陣営が別れていたことに由来する。勝久の屋敷は堀川の西、西軍陣地内にあり東軍から孤立していた状態であったため、西軍の攻撃を受け焼失した。
  • それからおよそ120年後、関白に就任した豊臣秀吉が政務を行う場として、かつての大内裏跡地に聚楽第(じゅらくてい・じゅらくだい)を築城、付近一帯には大名屋敷が配置された。
    ここは五大老の一人である上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)の屋敷跡で、景勝の官職名「弾正少弼(だんじょうしょうひつ)」から「弾正町」の町の名が残る。
  • ただ、景勝邸ではなく浅野長政(弾正少弼)邸であったとする説もある。
  • 【上杉景勝】うえすぎ・かげかつ
  • 【生没年】弘治元年(1556年)- 元和9年(1623年)
  • 【官位】弾正少弼・越後守・左近衛権少将・従三位・参議・近衛中将・権中納言など
  • 【素性】越後国上田長尾家 長尾政景の二男。後に叔父の上杉謙信の養子となり家督を継ぐ。

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聚楽城上杉景勝・直江兼続屋敷跡 https://rekishidou.com/uesugiyashiki/ https://rekishidou.com/uesugiyashiki/#respond Mon, 14 Mar 2016 11:53:27 +0000 http://rekishidou.com/?p=1253 京都・聚楽第の武家地。上杉景勝直江兼続の屋敷があったと考えられている場所。

歴史・概略

  • 天正15年(1587年)、関白となった豊臣秀吉が政務をとる拠点として聚楽第(じゅらくてい・じゅらくだい)を築城、周辺には武家屋敷が配置された。しかし、完成からわずか8年ほどで破却されてしまったため、ほとんど資料が残っておらず詳細は分かっていない。
  • ただ、大名屋敷が並んでいたとされるエリアに残された地名などから、かつて大名屋敷があった可能性が推定されている。
  • 上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)は越後の上杉謙信の跡を継いだ大名で、豊臣政権では五大老のひとり。そして、直江兼続(なおえ・かねつぐ)景勝の側近である。
    この石碑のある場所は長尾町や直家町と呼ばれ、上杉景勝の旧姓の長尾と直家=直江に因んでいるとされている。このことから、石碑の北側に景勝の屋敷が、南側には景勝の重臣・兼続の屋敷があったと考えられている。

見どころ・おすすめ

  • 現在、目に見える聚楽第の遺構はほとんど残っていないが、周辺には聚楽第跡や武家屋敷跡などがかなり広範囲に存在し石碑も立てられているので、これらを巡ってみるのがおすすめ。
  • 大名に関する名前が町名に残っている場所も多く、これらを辿るのも面白い。

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黒田如水邸跡(京都) https://rekishidou.com/josuitei/ https://rekishidou.com/josuitei/#respond Sun, 13 Mar 2016 00:47:23 +0000 http://rekishidou.com/?p=1250 豊臣政権時代、京都聚楽第付近に設けた黒田官兵衛(如水)の屋敷があった場所。

歴史・概略

  • 聚楽第(じゅらくてい・じゅらくだい)は、関白となった豊臣秀吉が、天正15年(1587年)に京都に築城した政庁兼邸宅で、周辺には秀吉配下の大名屋敷が立ち並んでいた。
  • 黒田官兵衛(くろだ・かんべえ)は、名を孝隆孝高(よしたか)、剃髪後に如水(じょすい)を号した。秀吉が信長配下として中国攻めを行っていた頃より仕える側近のひとりである。「本能寺の変」が起こった際も、すぐに京へ上り明智光秀を討つよう秀吉に進言したとされ、これによって秀吉の天下への道が開けたと言われている。
  • この町の名前は如水町、隣は官兵衛の旧姓に因んだ小寺町となっている。

見どころ・おすすめ

  • 現在、目に見える聚楽第の遺構はほとんど残っていないが、周辺には聚楽第跡や武家屋敷跡などがかなり広範囲に存在し石碑も立てられているので、これらを巡ってみるのがおすすめ。
  • 付近には大名に関する名前が町名に残っている場所も多く、これらを辿るのも面白い。

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