鳥羽天皇 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 場所と歴史をわかりやすく簡単に解説! Sat, 13 May 2023 06:55:34 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.2.5 https://rekishidou.com/wp-content/uploads/cropped-kofun-32x32.jpeg 鳥羽天皇 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 32 32 高陽院邸跡 https://rekishidou.com/kayanointei-2/ https://rekishidou.com/kayanointei-2/#respond Mon, 31 Oct 2022 11:48:53 +0000 https://rekishidou.com/?p=10521 平安時代から鎌倉時代にかけての藤原氏の邸宅跡、および里内裏跡。

歴史・概略

  • 高陽院(かやのいん)平安時代中期の関白・藤原頼通(ふじわら・よりみち/道長の長男)がおもな拠点とした屋敷である。ほかに「賀陽院」とも表記される。
  • 平安時代初期、この付近には桓武天皇の皇子・賀陽親王(かやしんのう)の邸宅があった。その後幾人かの所有者を経た後、この地を気に入った頼通保安元年(1021年)に寝殿造りの屋敷を造営した。敷地は2町四方(約250m四方)にも及ぶ広大なものであった。
    発掘調査では約140メートルという巨大な池の跡も発見されており、屋敷の豪華絢爛さが裏付けられている。
  • 頼道の引退後は里内裏となり、後冷泉天皇以後5代に渡って御所として使われた。
  • 鎌倉時代初期、後鳥羽上皇が譲位した後の院御所とした。
  • 貞応2年(1223年)、放火により焼失。この焼失を最後に再建されることはなかった。

見どころ・おすすめ

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高陽院邸跡 https://rekishidou.com/kayanointei/ https://rekishidou.com/kayanointei/#respond Thu, 16 Apr 2020 02:15:32 +0000 https://rekishidou.com/?p=10517 平安時代から鎌倉時代にかけての藤原氏の邸宅、および御所跡。

歴史・概略

見どころ・おすすめ

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二条大路末北築地塀地業石(最勝寺跡) https://rekishidou.com/nijoojikitatsuiji/ https://rekishidou.com/nijoojikitatsuiji/#respond Sun, 22 Sep 2019 04:02:22 +0000 https://rekishidou.com/?p=8942 平安京の北東・白河に残された平安時代後期のものとみられる築地塀跡。

歴史・概略

  • 岡崎公園の駐車場建設における発掘調査で、平安時代後期の二条大路末の北側築地塀の基礎であったとみられる地業石が出土、そのまま岡崎公園の一角に復元展示されている。二条大路末とは、平安京の二条大路より鴨川の東側にそのまま伸ばした道路で、道幅は30メートルほどあったといわれる。
  • 平安京白河付近の復元模型

    平安京白河付近の復元模型(平安京創生館・京都府京都市)

  • 鴨川の東は白河と呼ばれ、平安時代初期の公卿・藤原良房が白河に別業(別荘)を営んで以来、屋敷や寺院の建立が続いた。平安時代後期になると、二条大路末北側に白河上皇が御所を置き、周辺には天皇の御願寺が相次いで建てられるなど、およそ100年続いた院政期の政治が行われた中心地のひとつとなった。
    地業石が置かれた場所は、鳥羽天皇の御願寺のひとつ最勝寺があった場所と推定されている。
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得長寿院跡 https://rekishidou.com/tokuchojuin/ https://rekishidou.com/tokuchojuin/#respond Sun, 11 Aug 2019 00:28:03 +0000 https://rekishidou.com/?p=8926 平安時代に建立された得長寿院の跡。

歴史・概略

  • 得長寿院(とくちょうじゅいん)天承2年(1132年)、白河に建立された鳥羽上皇の御願寺のひとつである。
  • 観音堂の造営は平清盛の父・忠盛によって行われ、落慶供養の際には観音像千体が寄進された。後に清盛によって建てられた三十三間堂はこれをモデルにしたといわれており、同程度の規模のものであったとされている。この功績により、忠盛は伊勢平氏として初めて昇殿を許され、その後の平氏隆盛の基礎を作った。
  • 得長寿院が建てられた白河の地は、平安時代後期白河天皇から始まる院政の時代には御所が置かれ、天皇勅願の御願寺も数多く建てられるなど、武士政権が誕生するまでの間、政治の中心として栄えた場所であった。
  • 平安京白河付近の復元模型

    平安京白河付近の復元模型(平安京創生館・京都府京都市)

  • 元暦2年(1185年)、文治地震により京都に大きな被害が発生。これにより得長寿院の観音堂も倒壊、廃絶した。

見どころ・おすすめ

  • 周辺には、院政期の御所跡や天皇ゆかりの御願寺が点在し、遺構は残っていないが石碑が立てられているので、回ってみるといい。

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土御門内裏跡 https://rekishidou.com/tsuchimikadodairi-2/ https://rekishidou.com/tsuchimikadodairi-2/#respond Mon, 12 Aug 2019 01:01:58 +0000 http://rekishidou.com/?p=4070 平安時代後期に使われた里内裏跡。

歴史・概略

  • もともとこの場所には、村上天皇の第7皇子で村上源氏の祖となった具平親王(ともひらしんのう)の邸宅があり、曾孫の源師時(みなもともろとき)のとき、鳥羽天皇の里内裏として改築された。
  • 現在の上長者町通から下長者町通にかけての、およそ一町四方の規模で大内裏を模して造られたという。
  • その後も崇徳天皇近衛天皇によって使われたが火災によって焼失、一度は再建されたが近衛天皇の崩御や「保元の乱」などにより再建は中止された。
  • 室町時代初期、清浄華院(しょうじょうけいん)が三条坊門よりこの場所へ移転したが、豊臣秀吉の都市整備によって再度移転させられている。
  • 江戸時代には水戸藩邸が置かれた。南側に水戸藩邸跡を示す碑がある。

見どころ・おすすめ

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清和院・土御門内裏跡 https://rekishidou.com/tsuchimikadodairi/ https://rekishidou.com/tsuchimikadodairi/#respond Sat, 08 Apr 2017 00:32:51 +0000 http://rekishidou.com/?p=3274 平安時代後期に使われた里内裏跡。

歴史・概略

見どころ・おすすめ

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三条烏丸御所跡 https://rekishidou.com/sanjokarasumagosyo/ https://rekishidou.com/sanjokarasumagosyo/#respond Mon, 13 Mar 2017 03:26:47 +0000 http://rekishidou.com/?p=3270 平安時代後期に建てられた藤原氏の邸宅跡、および御所跡。三条桟敷殿、三条南殿とも呼ばれた。

歴史・概略

  • この場所は御所のあった北側にあたり、この石碑から南方向に約120メートル四方の敷地を持っていた。周辺からは建物の柱跡や、庭の遺構、瓦や器などが発掘されている。
  • 元々は堀河天皇鳥羽天皇の乳母で、鳥羽天皇の中宮・藤原璋子(待賢門院)の母でもあった藤原光子(ふじわらみつこ)の邸宅として建てられた。その後、子の藤原実能(ふじわらさねよし)に受け継がれ、実能鳥羽法皇に献上し御所となった。

見どころ・おすすめ

  • 石碑のみではあるが、周辺には平安時代ごろの御所跡が点在しているのでまとめて回るといい。

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堀河天皇里内裏址 https://rekishidou.com/horikawasatodairi/ https://rekishidou.com/horikawasatodairi/#respond Wed, 23 Mar 2016 00:23:40 +0000 http://rekishidou.com/?p=1979 現在の京都市にあった平安時代の藤原氏の屋敷跡、および里内裏跡。(現在は石碑なし)

歴史・概略

  • 京都の観光地のひとつである二条城の西側(現在のHOTEL THE MITSUI KYOTO・ANAクラウンプラザホテル京都・京都堀河音楽高等学校付近)には、かつて堀河院と呼ばれる南北2町東西1町に及ぶ広大な屋敷があった。その歴史は、史上初めて関白に就任した平安時代初期の権力者・藤原基経(ふじわら・もとつね)が屋敷を構えたことに始まり、基経は屋敷の名から堀河大臣と称された。その後、関白・藤原兼通(別名堀河殿)の屋敷となって改修が施され、円融天皇(えんゆうてんのう)中宮(藤原媓子)兼通の娘であった繋がりから円融天皇が里内裏とした。
    平安時代後期には、白河天皇堀河天皇鳥羽天皇が里内裏としている。
  • 嘉承2年(1107年)、堀河天皇が邸内で崩御。
  • 保安年間(1120年~1123年)、火災によって焼失、以降は再建されなかった。
  • 江戸時代、徳川家康の子・結城秀康を祖とする福井藩邸が置かれ、石碑が立てられている。

見どころ・おすすめ

  • ここは石碑のみの史跡なのでわざわざ目指すことはないと思う。二条城のすぐ目の前にあるのでそのついでにでも回るのがよいかと。
  • 周辺には冷然院跡閑院内裏跡東三条殿跡高松殿跡といった同時代の御所跡が点在しているのでそれらも一緒に回るとよい。

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三条東殿遺址「平治の乱」勃発の地 https://rekishidou.com/sanjohigasidono/ https://rekishidou.com/sanjohigasidono/#respond Tue, 17 Nov 2020 05:38:27 +0000 http://rekishidou.com/?p=1089 平安時代から鎌倉時代にかけての藤原氏の邸宅、および皇族の御所跡。「平治の乱」が勃発するきっかけとなった戦闘が起こった地。

歴史・概略

  • 平安時代中期、ここには伊予守・藤原済家の邸宅があったとされる。その後、宮内卿・藤原家通藤原家保を経て、天治2年(1125年)白河法皇に渡った。法皇は殿舎を整えてここを院御所とした。
    同時期、西隣にも御所が置かれており、それぞれ三条東殿(三條東殿)、三条西殿(三條西殿)と呼ばれた。
  • 三条西殿跡

    三条西殿跡(京都府京都市)

  • 白河法皇の崩御後は、法皇の孫にあたる鳥羽上皇が院御所とし、中宮の待賢門院(たいけんもんいん・藤原璋子)とともに過ごした。
  • 長承元年(1132年)、火災により焼失。後に再建される。
  • 後白河法皇が院御所とする。
  • 平治元年12月9日(1160年1月19日)、後白河上皇二条天皇それぞれを推す派閥に分裂し、天皇を推す藤原信頼源義朝らが三条東殿を襲撃した。上皇と上西門院(法皇の姉)は捕らえられ幽閉、殿舎は焼失した。
    これにより「平治の乱」が勃発、乱の勝者となった平清盛が躍進していくきっかけとなった。
  • この後、後白河上皇は東山に法住寺殿を建設、焼失した三条東殿に代わる新たな拠点とした。
  • 廃された時期は不明だが、鎌倉時代初期までは存在が確認できる。

見どころ・おすすめ

  • この周辺には平安時代頃に使われた御所跡が多く点在する。石碑ばかりだが、まとめて回ってみるといい。

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高松殿跡 https://rekishidou.com/takamatsudono/ https://rekishidou.com/takamatsudono/#respond Sun, 22 May 2016 03:38:01 +0000 http://rekishidou.com/?p=1087 平安時代、歴代上皇が院御所とした邸宅跡

歴史・概略

見どころ・おすすめ

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