細川忠興 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 場所と歴史をわかりやすく簡単に解説! Mon, 20 Mar 2023 05:35:00 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.2.5 https://rekishidou.com/wp-content/uploads/cropped-kofun-32x32.jpeg 細川忠興 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 32 32 関ケ原古戦場 https://rekishidou.com/sekigahara/ https://rekishidou.com/sekigahara/#respond Tue, 23 Feb 2016 04:04:17 +0000 http://rekishidou.com/?p=1864 慶長5年9月15日(1600年10月21日)、岐阜県関ケ原町で行われた天下分け目の戦い。日本史上最大規模の戦闘となった中心地。

歴史・概略

見どころ・おすすめ

  • 周辺一帯には、戦闘に参加した大名の陣跡が点在している。
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小田原城 https://rekishidou.com/odawarajo/ https://rekishidou.com/odawarajo/#respond Mon, 25 Jan 2016 02:20:02 +0000 http://bng2.com/rekinavi/?p=457 神奈川県小田原市にあった城。江戸時代の小田原藩の藩庁。

歴史・概略

戦国時代、相模に進出してきた大森氏によって築城され、その後、後北条氏の祖となる伊勢盛時(北条早雲)によって奪われた。息子の北条氏綱の代になって以後は北条氏の居城となった。

関東の覇権を巡り上杉謙信武田信玄などから相次いで侵攻を受けるが、小田原城の堅固な構えを前にこれを防いだ。このことから難攻不落の城とも呼ばれた。

しかし、豊臣秀吉による「小田原攻め(小田原征伐)」の際にはおよそ20万の兵で取り囲まれ、その間に北条氏の支城は次々と落とされていった。そしてついに数か月後には降伏した。

  • 築城:応永24年(1417年)
  • 廃城:明治4年(1871年)
  • 築城主:大森頼春
  • 構造:不明
  • 主な城主:後北条氏・阿部氏・稲葉氏・大久保氏
  • 日本100名城
  • 15世紀中頃、大森氏が小田原城を築城
  • 明応4年(1495年)、北条早雲が城を奪う(もう少し後とする説もある)
  • 永禄4年(1561年)、上杉謙信が小田原城を攻める
  • 永禄12年(1569年)、武田信玄が小田原城を攻める
  • 天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めで北条氏滅亡
  • 明治4年(1871年)、廃城
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中津城 https://rekishidou.com/nakatsujo/ https://rekishidou.com/nakatsujo/#respond Sat, 17 Mar 2018 03:21:05 +0000 http://rekishidou.com/?p=4257 大分県中津市にあった城。
築城の名手といわれた黒田如水が築城した城として知られ、江戸時代には中津藩の藩庁が置かれた。中津川城、扇城、小犬丸城、丸山城とも呼ばれる。

歴史・概略

  • 天正16年(1588年)、領主の黒田孝高が築城を開始。
  • 慶長5年(1600年)、関ケ原の戦い」における黒田長政の戦功により黒田家は筑前に加増転封、後に細川忠興が入城。
  • 慶長7年(1602年)、忠興小倉城を居城とし、忠興の次男・興秋が城主となる。
  • 寛永9年(1632年)、細川家熊本藩転封となり、後に小笠原長次が入城。
  • 享保2年(1717年)、奥平昌成が入城。
  • 明治10年(1877年)、西南戦争の混乱で襲撃を受け城内に被害。
  • 築城:天正16年(1588年)
  • 廃城:明治4年(1871年)
  • 築城主:黒田孝高(官兵衛・如水)
  • 構造:平山城・梯郭式
  • 主な城主:黒田氏、細川氏、小笠原氏、奥平氏
  • 【日本三大水城】高松城(香川県)・今治城(愛媛県)・中津城(大分県)

見どころ・おすすめ

  • 天守-模擬天守。奥平家に関する歴史展示館。
  • 石垣・堀-黒田官兵衛や細川氏の時代のものが見られる。
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小倉城 https://rekishidou.com/kokurajo/ https://rekishidou.com/kokurajo/#respond Wed, 10 May 2017 00:23:16 +0000 http://rekishidou.com/?p=4253 福岡県北九州市にあった城。江戸時代の小倉藩藩庁。

歴史・概略

  • いつ頃築城されたかは不明であるが、鎌倉時代にはすでに存在していたとされる。その後豊臣秀吉による九州攻めの際には戦場となり、戦後、秀吉の家臣・森勝信(毛利勝信)が入城した。現在見られる縄張りは勝信によるものである。
  • その後「関ケ原の戦い」が勃発すると毛利家は西軍に与したため改易され、代わりに細川忠興が入った。しかし、寛永9年(1632年)細川家は肥後へ加増転封され、後には小笠原氏が入った。
  • 幕末に発生した長州征討では再び小倉が戦場となり小倉城は焼失した。
  • 築城:不明
  • 廃城:慶応2年(1866年)
  • 築城主:不明
  • 構造:不明
  • 主な城主:細川氏・小笠原氏
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勝龍寺城跡 https://rekishidou.com/syouryujijo/ https://rekishidou.com/syouryujijo/#respond Sat, 19 Dec 2015 12:10:16 +0000 http://bng2.com/rekinavi/?p=66 京都府長岡京市にあった城。小竜寺城とも呼ばれる。
戦国時代には細川氏の城となり、明智光秀の娘たま(後のガラシャ夫人)が輿入れし、暮らした城として知られる。

歴史・概略

  • 読み:しょうりゅうじじょう
  • 築城:延元4年/暦応2年(1339年)
  • 廃城:慶安2年(1649年)
  • 築城主:細川頼春か
  • 構造:平城・梯郭式
  • 主な城主:岩成友通細川藤孝など

見どころ・おすすめ

  • 資料室では細川氏や「山崎の合戦」に関わる展示がされている。
  • 「山崎の合戦」に敗れた明智光秀が坂本城を目指して抜け出したという北門が残っており、当時の石垣が見られる。
  • 天守があったと考えられる西側の土塁からは天王山を望むことができる。
  • 山崎から長岡京にかけて周辺には「山崎の合戦」に関連する史跡が点在しているので、同時に回るのがおすすめ。1日で全部を回り切るのは結構大変かもしれないが、合戦のスケール感が掴める。
  • 天王山中腹の旗立松からは合戦場所周辺を俯瞰して見ることができる。
  • 少し北側に土塁と空堀跡があるので、勝龍寺城をひとしきり回ったら寄ってみるといい。
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勝龍寺城土塁 空堀跡 https://rekishidou.com/syouryujijo-3/ https://rekishidou.com/syouryujijo-3/#respond Wed, 02 Dec 2020 03:03:11 +0000 https://rekishidou.com/?p=9324 勝龍寺城は室町時代から江戸時代初期にかけて京都府長岡京市にあった城。
勝竜寺城・小竜寺城などの字もあてられる。

歴史・概略

  • 延元4年/暦応2年(1339年)、細川頼春(細川藤孝の祖)により築城されたといわれるが信ぴょう性は低い。
  • 永禄9年(1566年)、三好三人衆のひとり岩成友通(いわなり・ともみち)に攻められ落城した。
  • 永禄11年(1568年)、織田信長足利義昭を奉じて上洛、三好勢力下にあった摂津の諸城を攻撃した。その際に勝竜寺城も攻撃を受け落城した(勝竜寺城の戦い)
  • 元亀2年(1571年)、幕臣の細川藤孝が西岡(京都の西側)に領地をもらい入城した。この後、勝龍寺城が織田氏の京都支配の拠点となる。
  • 天正6年(1578年)、明智光秀の娘・お玉(後のガラシャ夫人)藤孝の嫡男・細川忠興(ほそかわ・ただおき)に輿入れし、勝龍寺城で生活を送った。
  • 天正10年(1582年)、明智光秀が「本能寺の変」を起こした直後、光秀の属城となる。
  • 天正10年(1582年)、羽柴秀吉が京都に攻め上り勝龍寺城のすぐ南の山崎において明智光秀と戦闘山崎の合戦。この戦いにおいて光秀は勝龍寺城を後方基地とした。
    「山崎の戦い」で敗北した光秀は、一旦は勝龍寺城に帰城したものの、この城では籠城戦を戦えないと判断し、城を抜け出して居城の坂本城を目指した。しかし、このあと光秀は落ち武者狩りによって命を落とすこととなった。
    これ以後しばらくの間、勝龍寺城は廃城状態であったと思われる。
  • 寛永10年(1633年)、旗本の永井直清が入府し、山城長岡藩が立藩。直清は勝龍寺城の改修を試みるも水はけの悪さから断念し、北側に新たな本丸を設けた。
  • 慶安2年(1649年)、廃城
  • 「山崎の合戦」前後の出来事
    6月2日 本能寺の変
    6月6日 羽柴秀吉が備中高松城より引き上げ(中国大返し)(日付は諸説あり)
    6月13日 山崎の合戦
    6月13日 明智光秀が戦いに敗れ勝龍寺城へ帰城
    6月13日 明智光秀が坂本城へ逃げる途中で絶命
    6月14日 坂本城落城
    6月15日 安土城本丸焼失
    6月27日 清須会議
  • 読み:しょうりゅうじじょう
  • 築城:延元4年/暦応2年(1339年)
  • 廃城:慶安2年(1649年)
  • 築城主:細川頼春?
  • 構造:平城・梯郭式
  • 主な城主:岩成友通細川藤孝など

見どころ・おすすめ

  • 土塁や空堀がかなりはっきりとした状態で残っている。土塁構造をタイルで示したり案内板なども設置されているので結構楽しめる。
  • この場所のすぐ南側には勝龍寺城跡がある。堀や模擬櫓などが復元された公園として整備されている。
  • 勝龍寺城だけに気をとられているとこの土塁は見過ごされてしまいがちだが、勝龍寺城に行った後にでも寄ってみるといい。

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田辺城 https://rekishidou.com/tanabejo/ https://rekishidou.com/tanabejo/#respond Tue, 04 Apr 2017 02:48:51 +0000 http://rekishidou.com/?p=3497 京都府舞鶴市にあった城。舞鶴城とも呼ばれる。

歴史・概略

  • 築城:天正7年(1579年)
  • 廃城:明治7年(1873年)
  • 築城主:細川幽斎
  • 構造:輪郭式・平城
  • 主な城主:細川氏・京極氏・牧野氏
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越中井(細川忠興邸跡・ガラシャ最後の地) https://rekishidou.com/ecchui/ https://rekishidou.com/ecchui/#respond Fri, 12 Feb 2016 01:16:37 +0000 http://rekishidou.com/?p=1633 現在の大阪城より南へ数百メートルの場所、かつて細川忠興(越中守)邸がこの付近にあった。越中井はその屋敷の台所にあった井戸と伝えられる。

歴史・概略

  • 細川忠興(ほそかわ・ただおき)室町幕府の幕臣であった細川藤孝(幽斎)の長男で、父とともに織田氏、豊臣氏、徳川氏に仕えた。明智光秀の娘・たま(ガラシャ夫人を正室に迎えたことで知られる。
  • その後、たまは父が起こした「本能寺の変」により幽閉されるなど不遇の時代を過ごしたが、後に豊臣秀吉の時代に変わったことでたまは許された。
    しかし、「謀反人の娘」という呪縛から逃れることはできず、このことがキリシタンに傾倒していくきっかけになったと思われる。後に自邸において洗礼を受け、ラテン語で「神の恵み」を意味する「ガラシャ」の洗礼名を受けた。

  • 細川忠興夫人隠棲地

    細川ガラシャ隠棲地(京都府京丹後市)

  • 慶長5年9月の「関ケ原の戦い」の本戦が行われる少し前、上杉征伐のため徳川家康はじめ多くの大名達が会津へと向かった。そんな中、徳川家康の討伐のため挙兵した石田三成は大阪城中に残る大名の妻子を人質にしようと画策した。
    しかし、ガラシャ夫人は三成方の人質になることを拒み、ひとしきり祈ったあと家臣の小笠原秀清に首をはねられ亡くなった。その後、秀清ガラシャ夫人の遺体を相手に渡さぬよう屋敷に火をかけ自刃したという。
    このことが東軍に伝わると逆に東軍内の結束を固くし、西軍不利に働いたとも言われる。
  • 「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」ガラシャ夫人の辞世の句が石碑に刻まれている。

見どころ・おすすめ

  • この北部には大阪城があるので、大阪城のついでにでも寄ってみればいいと思う。
  • また、南には真田丸跡があるので、こちらも一緒に回るといい。

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