加藤清正 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 場所と歴史をわかりやすく簡単に解説! Wed, 22 Mar 2023 01:07:50 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.2.5 https://rekishidou.com/wp-content/uploads/cropped-kofun-32x32.jpeg 加藤清正 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 32 32 江戸城跡(皇居) https://rekishidou.com/edojo/ https://rekishidou.com/edojo/#respond Fri, 18 Mar 2016 01:02:16 +0000 http://rekishidou.com/?p=2600 東京都千代田区にある城。
徳川家康によって開かれた江戸幕府の拠点として知られる。

歴史・概略

  • 築城:長禄元年(1457年)
  • 廃城:
  • 築城主:太田道灌
  • 構造:輪郭式・平城
  • 主な城主: 太田氏・扇谷上杉氏・北条氏・徳川氏・皇室
  • 日本100名城
  • 長禄元年(1457年)、関東に勢力を張っていた扇谷上杉氏の家臣・太田道灌(おおた・どうかん)が平安時代よりこの地に勢力を張っていた江戸氏居館に江戸城を築城。
  • 大永4年(1524年)、北条氏の勢力拡大により北条氏の城となる。
  • 天正18年(1590年)、豊臣秀吉の「小田原攻め(小田原征伐)」により北条氏は降伏、この時の戦功によって家康が北条氏の旧領に入り江戸城を本拠とする。
  • 秀吉の死後勃発した「関ケ原の戦い」に勝利し家康が幕府を開いた後もここを本拠とし、幕末まで続く。
  • 慶長8年(1603年)~万治3年(1660年)、天下普請による江戸城改修工事が続く。
  • 明暦3年(1657年)、明暦の大火により天守を含め建物の多くを焼失。
  • 安政2年(1855年)、安政大地震で建物や石垣などに被害。
  • 慶応4年(1868年)、徳川家が新政府軍に江戸城を明け渡す。
  • 明治2年(1869年)、明治天皇が「禁門の変」で荒廃していた京都より遷り皇居となる。

見どころ・おすすめ

  • 天守台-明暦の大火で焼失し再建された天守台。しかし後に天守は不要とされ天守は再建されなかった。
  • 桜田門・田安門・清水門-国の重要文化財。
  • 大番所・百人番所・同心番所-警護員の詰所。
  • 富士見多聞-江戸城で唯一現存している多門櫓。
  • 松の大廊下跡-浅野内匠頭(長矩)が吉良上野介(義央)に刃傷に及んだというあの廊下跡。
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熊本城 https://rekishidou.com/kumamotojo/ https://rekishidou.com/kumamotojo/#respond Fri, 16 Mar 2018 02:32:09 +0000 http://rekishidou.com/?p=4260 熊本県熊本市にあった城。
加藤清正が作り上げた城として知られ、江戸時代には熊本藩細川氏の居城となった。千葉城、隈本城、銀杏城とも呼ばれる。

歴史・概略

  • 文明年間(1469年~1487年)、肥後守護菊池氏の一族・出田秀信が千葉城を築城。
  • 大永・享禄年間(1521年~1531年)、鹿子木親員(寂心)が隈本城を築城。
  • 天正15年(1587年)、佐々成政が隈本城に入城。
  • 天正16年(1588年)、加藤清正が隈本城に入城。
  • 天正19年(1591年)、千葉城・隈本城一帯に築城を開始。
  • 慶長11年(1606年)、新城が完成し名を熊本に改めた。
  • 寛永9年(1632年)、細川忠利が入城。
  • 明治9年(1876年)、「神風連の乱」により城内で戦闘となる。
  • 明治10年(1877年)、西南戦争により政府軍と薩摩軍が戦闘。
  • 平成28年(2016年)、最大震度7の熊本地震により石垣や建物が被災。その後大規模な修復が行われた。
  • 築城:文明年間(1469年~1487年)
  • 廃城:明治7年(1874年)
  • 築城主:出田秀信(千葉城)
  • 構造:平山城・梯郭式
  • 主な城主:加藤清正、細川氏
  • 日本100名城
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山崎合戦古戦場(山崎の戦い) https://rekishidou.com/yamazakikosenjo/ https://rekishidou.com/yamazakikosenjo/#respond Fri, 27 May 2016 02:02:14 +0000 http://rekishidou.com/?p=3630 京都の山崎で羽柴秀吉軍が明智光秀軍を破った「山崎の戦い」が行われた地。

歴史・概略

  • 天正10年(1582年)、明智光秀が京都本能寺において主君である織田信長を討ち取ることに成功。この「本能寺の変」の知らせを聞いて、すぐさま備中高松城より軍を引き返した羽柴秀吉軍(中国大返し)と光秀軍が、この山崎の地で激突した。
  • 山崎は京都のすぐ西側にあり、大阪や西国とを結ぶ交通の要衝であるだけでなく、川と山に挟まれた戦略的にも非常に重要な場所であった。光秀はこの場所の出口(東側)に陣取って秀吉軍の各個撃破を画策したとみられる。
  • 南北に流れる円明寺川(現・小泉川)を挟んで西側に秀吉軍約3万6千、東側に光秀軍約1万5千が対峙した。ちょうど石碑の辺りで両軍が激しく衝突したとみられるが、戦闘が始まると光秀軍は戦力に勝る秀吉軍に次第に押され、わずか1時間半ほどで秀吉軍の勝利に終わったという。
  • 光秀はこの後、一旦は後方の勝竜寺城に逃げ帰るが、戦略的に不利と見て居城の坂本城を目指した。しかしその途中、落ち武者狩りに遭って命を落とすこととなった。
  • 「山崎の合戦」前後の出来事
    <天正10年>
    6月 2日 本能寺の変
    6月 6日 秀吉、備中高松城より引き上げ(中国大返し)(日付は諸説あり)
    6月13日 山崎の合戦
    6月13日 光秀、戦いに敗れ勝龍寺城へ帰城
    6月13日 光秀、坂本城へ逃げる途中で絶命
    6月14日 坂本城落城
    6月15日 安土城本丸焼失
    6月27日 清須会議

見どころ・おすすめ

  • この場所では円明寺川(現・小泉川)の様子や天王山、明智光秀または斎藤利三の陣とされる境野1号墳を眺めることができる。
  • 山崎から長岡京にかけて周辺には「山崎の合戦」に関連する史跡が点在しているので、同時に回るのがおすすめ。1日で全部を回り切るのは結構大変かもしれないが、合戦のスケール感が掴める。
  • 天王山中腹の旗立松からは合戦場所周辺を俯瞰して見ることができる。

関連動画

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名古屋城 https://rekishidou.com/nagoyajo/ https://rekishidou.com/nagoyajo/#respond Mon, 22 Feb 2016 05:23:24 +0000 http://rekishidou.com/?p=1800 愛知県名古屋市にあった城。徳川御三家である尾張徳川家の居城。別名は名城(めいじょう)、金鯱城(きんこじょう、きんしゃちじょう)、金城(きんじょう)。

歴史・概略

室町時代、駿河に本拠を持つ今川氏が築城した那古野城に始まる。その後、織田氏の領有となり、後の天下人となった織田信長もここで生まれたとされる(勝幡城とする説あり)。

信長清州城に本拠を移した後はしばらく廃城となっていたが、「関ケ原の戦い」で天下人となった徳川家康が、尾張に領地を与えた家康の子・義直の居城として、慶長14年(1609年)に那古野城跡地に築城した。築城は西国大名達による、いわゆる天下普請によって行われた。

  • 築城:大永年間(1521年~1527年)
  • 廃城:明治4年(1871年)
  • 築城主:今川氏親
  • 構造:梯郭式・平城
  • 主な城主:今川氏・織田氏・徳川氏
  • 日本100名城
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宇土城跡 https://rekishidou.com/utojo/ https://rekishidou.com/utojo/#respond Thu, 29 Mar 2018 02:31:58 +0000 http://rekishidou.com/?p=4695 熊本県宇土市にあった城。
関ケ原の戦い」で西軍として戦った小西行長築城の城として知られる。城山とも呼ばれる。

歴史・概略

  • 天正17年(1589年)、肥後半国の領主となった小西行長により築城。
  • 慶長5年(1600年)、「関ケ原の戦い」に呼応し加藤清正が宇土城を攻撃、戦後清正に与えられる。
  • 慶長17年(1612年)、清正の隠居城として整備していたが、前年清正が亡くなったため廃城。
  • 築城:天正17年(1589年)
  • 廃城:慶長17年(1612年)
  • 築城主:小西行長
  • 構造:平山城
  • 主な城主:小西行長
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長浜城跡 https://rekishidou.com/nagahamajo/ https://rekishidou.com/nagahamajo/#respond Sun, 20 Mar 2016 03:55:22 +0000 http://rekishidou.com/?p=2621 滋賀県長浜市にあった城で、羽柴秀吉が初めて城主となったことで知られる。

歴史・概略

織田信長の義理の弟・浅井長政が本拠とする小谷城攻略において武功を立てた秀吉は、浅井氏の旧領に入った。当時今浜と呼ばれたこの地に新しい城を築城、信長の一字をもらい長浜城と名付けた。

また、このころから秀吉はそれまでの木下姓を改めて羽柴姓を名乗り始めた。

  • 築城:天正元年(1573年)
  • 廃城:慶長20年(1615年)
  • 築城主:羽柴秀吉
  • 構造:平城
  • 主な城主:羽柴氏・柴田氏・山内氏・内藤氏
  • 日本100名城
  • 天正10年(1582年)、本能寺の変」によって信長が亡くなると明智光秀に味方した阿閉貞征(あつじ・さだゆき)が長浜城を占拠、ねねや城の者たちは近隣の寺などに避難した。しかし、このすぐ後に起った「山崎の戦い」で明智軍は敗北、阿閉氏は処刑された。
    「山崎の戦い」の後に行われた清須会議の話し合いの中で、長浜城は柴田勝家の支配下となり、勝家の甥である柴田勝豊が入った。
  • 天正10年末(1582年)、勝家秀吉の仲は次第に悪化、長浜城は秀吉の攻撃を受け降伏した。その後「賤ヶ岳の戦い」で柴田氏が討ち取られると、山内一豊が入った。
  • 天正13年11月29日(1586年1月18日)、天正大地震が発生。城は全壊、一豊の娘も犠牲となった。
  • 天正18年(1590年)、徳川家康が関東に移封され、一豊が家康の旧領・遠江国掛川に転封。
  • 慶長11年(1606年)、徳川譜代・内藤信成が入府。
  • 元和元年(1615年)、内藤氏が摂津国高槻に転封。長浜城は廃城となった。
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応仁の乱洛中合戦勃発地・聚楽城 加藤清正邸・源頼光 一条邸・福岡藩邸・近衛邸跡 https://rekishidou.com/kiyomasatei/ https://rekishidou.com/kiyomasatei/#respond Sat, 26 Sep 2020 05:32:08 +0000 https://rekishidou.com/?p=9973 豊臣秀吉が天下を掌握した当時、京都に築いた聚楽第において加藤清正屋敷があったとされる場所。
この他にもいろんな時代の屋敷跡や戦跡として記録されている。

歴史・概略

  • 碑文
    「聚楽城 加藤清正邸跡伝承地」
    「此付近 応仁の乱 洛中合戦 勃発地」
    「藤原道綱母子 源頼光 一条邸跡」
    「筑前福岡黒田屋敷跡」
    「此北 近衛堀川屋敷跡」
  • 平安時代中期、摂政・関白・太政大臣であった藤原兼家の妻のひとりで蜻蛉日記を著した藤原道綱母(生没年・名前など詳細は不明)が住んでいた屋敷・一条邸があったとされる。その後は酒呑童子討伐で知られる武将・源頼光の屋敷ともなっている。
  • 室町時代中期、京都市街が焦土と化した「応仁の乱」において、洛中最初の合戦が起こった場所。東軍の京極持清はここから一条戻橋を渡り西軍と戦ったという。
  • 安土桃山時代、関白となった豊臣秀吉がこの付近を流れる堀川の西側に京における邸宅、兼政庁として聚楽第を築城、周辺には多くの大名屋敷が立ち並んだ。隣接地にある主計町の名から、ここは秀吉に近い加藤清正(主計頭・かずえのかみ)の屋敷があったとされている。
  • 江戸時代、筑前福岡藩の屋敷があった。
  • 江戸時代、この北側に藤原氏一族で五摂家のひとつ近衛家の屋敷があった。
    実は以前、この屋敷は薩長同盟が締結された小松帯刀の寓居とみられており、それを示す石碑も立てられていた。しかし、その後の新資料発見などで今は別の場所(小松帯刀寓居・御花畑屋敷跡・薩長同盟所縁地)とされ、その後石碑も新しく作り直されている。

見どころ・おすすめ

  • 平安時代中期に活躍した陰陽師・安倍晴明の居館跡であった晴明神社からすぐ近くなので、ついでに寄ってみればよいかと。
  • この周辺には聚楽第跡やその周りに建てられた大名屋敷跡が点在しているので、まとめて回るのがおすすめ。

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茶人珠光・織田信雄・加藤清正・紀州藩邸古蹟 https://rekishidou.com/nobukatsutei/ https://rekishidou.com/nobukatsutei/#respond Sun, 19 Mar 2017 01:21:45 +0000 http://rekishidou.com/?p=1260 戦国武将・加藤清正、および織田信雄らの京都邸跡。

歴史・概略

見どころ・おすすめ

  • 石碑があるだけで特別有名な史跡というわけでもないので、近くの本能寺跡を回るついでにでも行くといいかも。

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