源平合戦で平家軍を率いた武将のひとり平重衡の墓。
歴史・概略
- 平重衡(たいら・しげひら)は平氏政権を作り上げた平清盛の五男で、母は宗盛や知盛、徳子(建礼門院)らと同じ平時子(二位尼)。治承3年(1179年)に左近衛権中将となり、三位中将と称された。治承4年(1180年)に「治承・寿永の乱」が始まると平家軍の将のひとりとして各地を転戦した。その際、近江の園城寺(おんじょうじ)や奈良の東大寺や興福寺などを焼き討ち(南都焼き討ち)したことで知られる。
- 寿永3年(1184年)、平家軍は一ノ谷の戦いで敗北、重衡は敗走中に源氏軍に捕らえられ鎌倉に護送、捕虜として過ごした。
- 元暦2年(1185年)、南都衆徒に身柄が引き渡され、木津川で斬首された。重衡の妻・輔子は遺骸をもらい受け、日野(現在地)に墓を建てたと言われる。享年29。
重衡に焼き討ちされた園城寺(三井寺)(滋賀県大津市) 焼き討ちで大仏が焼失した東大寺(奈良県奈良市)
見どころ・おすすめ
- 日野は貴族・日野氏の領地であり、その一族である親鸞の生誕地とされる法界寺や日野誕生院などからも近いので、ついでに行くといい。
施設データ
地図 |
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住所:京都府京都市伏見区醍醐外山街道町 周辺の史跡を探す |
主な施設 |
平重衡塚 |
利用時間 |
常時 |
定休日 |
無休 |
料金 |
無料 |
交通 |
【電車】 ・地下鉄「石田」駅から約1Km 【バス】 ・醍醐コミュニティバス「山口橋」「谷寺町」バス停 【マイカー】 ・名神高速「京都東IC」から約6Km |
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