豊臣秀頼 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 場所と歴史をわかりやすく簡単に解説! Mon, 06 Nov 2023 00:00:30 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.2.5 https://rekishidou.com/wp-content/uploads/cropped-kofun-32x32.jpeg 豊臣秀頼 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 32 32 大阪城公園 https://rekishidou.com/osakajo/ https://rekishidou.com/osakajo/#respond Sat, 19 Dec 2015 09:22:22 +0000 http://bng2.com/rekinavi/?p=12 大阪府大阪市にある城。

歴史・概略

大阪城(おおさかじょう)は、天正11年(1583年)羽柴秀吉(後の豊臣秀吉によって築城され、その後秀吉政権の本拠地となった。築城時の総奉行は黒田官兵衛で縄張りも行った。城の北側に大川が流れる天然の要害で、築城以前には石山本願寺が建っていた。別名金城、または錦城ともいう。

秀吉の死後、遺児である豊臣秀頼が政権を引き継いだが、関ケ原の戦いを経て江戸幕府を開いた徳川家康の率いる大軍に攻められ落城した。その後、江戸幕府により大掛かりな改修が行われ、豊臣時代の遺構は土の中へと消えた。現在残っている櫓や石垣、縄張りのほとんどは江戸期のものである。

天守は豊臣時代と徳川時代に築かれたがいずれも焼失し、今ある天守は昭和になってから市民の寄付によって再建された。下から4層目までは徳川時代風の漆喰の白い壁、5層目は豊臣時代風に黒い壁に金箔で虎などを描くなどしている天守は、今や大阪のシンボルとなっている。

豊臣時代大阪城復元模型

豊臣時代大阪城復元模型(大阪城天守閣)


徳川時代大阪城復元模型

徳川時代大阪城復元模型(大阪城天守閣)

  • 築城:天正11年(1583年)
  • 廃城:明治元年(1868年)
  • 築城主:豊臣秀吉
  • 構造:平城・輪郭式
  • 日本100名城
  • 重要文化財(大手門・多門櫓・千貫櫓・乾櫓など)
  • 天正11年(1583年)、羽柴秀吉(豊臣秀吉)により石山本願寺跡地に築城。工事はほかに天正14年(1586年)文禄3年(1594年)慶長3年(1598年)など数度に渡って行われた。
  • 天正14年(1586年)、大阪城内において徳川家康秀吉に対し諸大名が列するなか臣従を誓った。
  • 慶長5年(1600年)、石田三成が挙兵三成が城内にいる大名家の人たちを拘束。このとき細川ガラシャは人質となることを拒否して自害。
  • 慶長8年(1603年)、徳川秀忠の娘・千姫秀頼に輿入れ。
  • 慶長19年(1614年)、大坂冬の陣が起こる。
  • 慶長20年(1615年)、大坂夏の陣が起こる。
  • 寛永6年(1629年)、大修築完了。
  • 寛文5年(1665年)、落雷により天守焼失。
  • 慶応2年(1866年)、長州征伐で上洛していた将軍・徳川家茂が大阪城で病没。
  • 慶応3年(1868年)、徳川慶喜が京都二条城から大阪城に退去。
  • 慶応4年(1868年)、鳥羽伏見の戦い」により慶喜が江戸へ退去。
  • 昭和6年(1931年)、復興天守閣完成。
  • 「大阪の陣」のおもな出来事
    <慶長19年>7月 方広寺梵鐘の銘文事件/10月 豊臣方・徳川方開戦準備/11月 木津川口の戦い/11月 今福の戦い/11月 鴫野の戦い/11月 博労淵の戦い/11月 野田・福島の戦い/12月 真田丸の戦い/12月 豊臣方と徳川方が和議/12月 堀の埋め立て開始
    <慶長20年>3月 豊臣家の移封を要求/4月 再び開戦準備/4月 樫井の戦い/5月 道明寺の戦い(後藤又兵衛討死)/5月 八尾・若江の戦い/5月 天王寺・岡山の戦い(真田幸村討死)/5月 千姫、大阪城より救出/5月 大阪城落城(秀頼・淀君自害)

見どころ・おすすめ

  • 天守閣-豊臣秀吉と大阪城に関する博物館。
  • 門・櫓・蔵-大手門や多聞櫓、千貫櫓、乾櫓、金蔵など城内には数多くの建物が残されている。
  • 豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地碑-大坂の陣」で豊臣秀頼淀殿が自刃した場所と伝わる。
  • 豊国神社-豊臣秀吉を祀る神社。境内には巨大な豊臣秀吉像が立つ。
  • 石垣-石垣にはところどころ巨石が使われており、これらを巡ってみるのも面白い。
  • 庭園-桜や梅など季節ごとの花が咲き誇る。
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二条城 https://rekishidou.com/nijojo/ https://rekishidou.com/nijojo/#respond Sun, 20 Dec 2015 12:26:48 +0000 http://bng2.com/rekinavi/?p=116 京都府京都市にある城。
江戸時代、徳川家の拠点として京都に置いた城である。明治から昭和にかけて皇室の離宮として使用された経緯から、二条離宮とも呼ばれる。

歴史・概略

関ケ原の戦い」に勝利し実質的な天下人となった徳川家康が、西国諸大名に命じて築城した。他にも足利氏織田信長豊臣秀吉の時代に二条城あるいは二条御所などの名で呼ばれる場所があったが、現在見られる二条城とは全く別のもので関係はない。

後にここ二ノ丸御殿内において、家康秀吉の嫡男・豊臣秀頼との会見が行われた。家康は青年となり立派な姿に成長した秀頼を見て、徳川家の将来に不安を覚え豊臣家を滅ぼす決意をしたともいわれる。

幕末には第15代将軍徳川慶喜(とくがわ・よしのぶ)が、ここ二条城において将軍宣下を受け政務をとった。さらに、慶喜は二ノ丸御殿内に集めた在京諸藩の重臣達を前に大政奉還の意を発表、その翌々日慶喜の政権返上が成立した。これによって徳川政権が終わり、およそ700年に渡って続いた武家政権が終焉を迎えることとなった。

  • 築城:慶長8年(1603年)
  • 廃城:明治6年(1873年)
  • 築城主:徳川家康
  • 構造:輪郭式・平城
  • 主な城主:徳川氏
  • 日本100名城
  • 国宝(二ノ丸御殿)
  • 世界遺産
  • 慶長5年(1600年)、関ケ原の戦い
  • 慶長6年(1601年)、二条城築城を開始
  • 慶長8年(1603年)、二条城が完成
  • 慶長8年(1603年)、徳川家康が征夷大将軍に任ぜられる
  • 慶長11年(1606年)、天守が完成
  • 慶長16年(1611年)、豊臣秀頼徳川家康との会見が行われる
  • 慶長20年(1615年)、大阪の陣(豊臣家滅亡)
  • 寛永3年(1626年)、後水尾天皇を二条城に招き饗応(二条城行幸)
  • 寛延3年(1750年)、落雷により天守焼失
  • 慶応3年(1867年)、大政奉還
  • 明治6年(1873年)、廃城
  • 明治17年(1884年)、二条離宮となる
  • 明治27年(1894年)、京都御苑内の旧桂宮邸を本丸へ移築
  • 昭和27年(1952年)、国宝に指定
  • 平成6年(1994年)、世界遺産に登録
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三十三間堂(蓮華王院) https://rekishidou.com/sanjusangendo/ https://rekishidou.com/sanjusangendo/#respond Fri, 29 Apr 2016 02:24:48 +0000 http://rekishidou.com/?p=3421 平安時代末期、後白河上皇によって創建された寺院。現在では新成人が袴姿で矢を射る「通し矢」が行われる場所としてよく知られている。

歴史・概略

  • この地には後白河上皇が離宮としていた法住寺殿があり、当時権力を握っていた平清盛の資金協力によって、その邸内に建てられたのが蓮華王院(れんげおういん)である。
    創建時には五重塔など多くの伽藍が整備されたが、その後の火災によって焼失した。現在みられる三十三間堂の建物は鎌倉時代に再建されたもので、国宝に指定されている。
  • 長い本堂内には1000体以上の仏像が納められており、一部は創建当時の仏像が残っている。実はこれと同じような堂(得長寿院)は白河にも建てられており、約30年前清盛の父・平忠盛によって建立された。清盛がこの堂をモデルに三十三間堂を建てたものとみられている。
  • 堂の名の由来は、堂の柱間が33あるところからきており、これは観音菩薩の33の化身を意味している。
  • 長寛2年(1165年)、三十三間堂が完成。
  • 建長元年(1249年)、「建長の大火」により伽藍を焼失。
  • 文永3年(1266年)、本堂のみ再建。
  • 安土桃山時代、この北側に豊臣秀吉によって方広寺が建立され、三十三間堂も方広寺の伽藍の一部に組み込まれた。その際、秀吉や息子の秀頼によって整備が行われ、そのとき整備された壁や門は今も残っている。

見どころ・おすすめ

  • 本堂(三十三間堂)-国宝。約1000体の仏像が納められている。
  • 太閤塀-重要文化財。豊臣秀吉が方広寺の整備に伴って造られた築地塀。
  • 南大門-重要文化財。豊臣秀頼によって整備された門。以前は同時期に整備された西大門もあったが、こちらは東寺に移築された。
  • この周辺には後白河上皇ゆかりの法住寺殿跡後白河天皇法住寺陵のほか、かつて境内として組み込まれた方広寺などがある。

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木幡山伏見城跡 https://rekishidou.com/fushimijo-2/ https://rekishidou.com/fushimijo-2/#respond Tue, 23 Jul 2019 01:15:18 +0000 http://rekishidou.com/?p=1294 京都府京都市にあった安土桃山時代から江戸時代初期の平山城。

歴史・概略

大阪と京都を水運で結ぶ伏見の地に豊臣秀吉が築城した城。「関ケ原の戦い」の際には激しい戦闘も行われた。先に築城された指月伏見城(しげつふしみじょう)と区別するため、木幡山伏見城とも呼ばれる。他に桃山城とも呼ばれる。

  • 築城:文禄5年(1596年)
  • 廃城:元和9年(1623年)
  • 築城主:豊臣秀吉
  • 構造:梯郭式・平山城
  • 主な城主:豊臣氏・徳川氏
  • 文禄5年(1596年)、それまで豊臣秀吉が居城としていた指月伏見城が慶長伏見地震によって壊滅的な被害を受けたため、そこから少し離れた木幡山(こはたやま)に新たな城の築城を開始。
    その際、指月伏見城のかなりの部分が再利用され工事は急ピッチで進められた。
  • 慶長2年(1597年)、伏見城が完成。
  • 慶長3年(1598年)、秀吉が伏見城内で死去。
  • 慶長5年(1600年)、関ケ原の戦い」の前哨戦として、西軍が徳川家の家臣・鳥居元忠が守る伏見城を攻撃し、1か月以上の戦いの末に落城。この戦いで建物のほとんどが焼失したと思われる。
  • 慶長6年(1601年)、徳川家康により、伏見城の再建が開始。普請奉行は城造りの名人として知られる藤堂高虎
  • 慶長8年(1603年)、家康が、伏見城内で将軍宣下を受ける。この時をもって江戸幕府の開始とされる。
  • 慶長10年(1605年)、徳川秀忠が、伏見城内で将軍宣下を受ける。
  • 元和9年(1623年)、徳川家光が、伏見城内で将軍宣下を受ける。
  • 元和9年(1623年)、廃城。これ以後、伏見奉行所の管理下に置かれ幕末まで立ち入りが制限された。
  • 本丸跡付近は明治天皇陵となっており、現在立ち入りが禁止されている。
  • 花畑曲輪跡には、遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」の施設として、徳川時代の天守をモデルにした模擬天守が建てられた。しかし、現在は遊園地が閉園してしまったため、天守への立ち入りはできない状況となっている。

見どころ・おすすめ

  • 模擬天守は現在立ち入り禁止となっており、外から眺めることしかできない。
  • 周辺の伏見城遺構としては、北堀跡と言われる北堀公園や伏見城武家地 黒田長政下屋敷跡参考地、桃山東小学校内の復元石垣などがあり、御香宮神社の表門は伏見城大手門の移築とされているので、そちらも覗いてみるといい。
  • JR桃山駅近くには、木幡山伏見城が築城される以前に使用された指月伏見城の遺構が残されているので、そちらも見てみるといい。

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方広寺(京の大仏) https://rekishidou.com/hokoji/ https://rekishidou.com/hokoji/#respond Sun, 01 May 2016 03:24:10 +0000 http://bng2.com/rekinavi/?p=429 京都東山にある豊臣秀吉が建立した天台宗寺院。

歴史・概略

見どころ・おすすめ

  • 梵鐘-大阪の陣」のきっかけとなった梵鐘。「国家安康」「君臣豊楽」の銘文が今も残る。
  • 大仏殿石垣-方広寺から豊国神社、京都国立博物館にかけて、かつての大仏殿石垣が残る。
  • 方広寺裏手には大仏殿跡地があるので、立ち寄ってみるといい。

関連動画

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大仏殿跡緑地公園(京の大仏) https://rekishidou.com/daibutsuden/ https://rekishidou.com/daibutsuden/#respond Fri, 21 Feb 2020 09:44:32 +0000 http://rekishidou.com/?p=4502 豊臣秀吉が造営した「京の大仏」の大仏殿跡。

歴史・概略

  • 天正14年(1586年)、天下人となった豊臣秀吉は、奈良の大仏に倣って京に大仏の造立を始めた。しかし、慶長元年(1596年)に発生した慶長伏見地震によって、ほぼ完成していた大仏が倒壊してしまった。このとき「民を守るべき仏が崩れるとは何事か」と秀吉が大仏に向けて矢を放ったというのは有名な話である。
  • その後、秀吉は亡くなり、その遺志を継いだ子の豊臣秀頼が再び大仏を造立、慶長17年(1612年)に大仏が完成した。そして慶長19年(1614年)には梵鐘が完成したが、この梵鐘に刻まれた銘文がもとで徳川と対立し「大坂の陣」が勃発、豊臣家は滅亡した。
  • 豊臣滅亡後も大仏はそのまま残され、再び地震で壊れた後も木造で作り直されるなどした。江戸時代には「京の大仏」として庶民の観光地ともなっていたらしいが、寛政10年(1798年)の落雷によって焼失した。
  • 発掘調査の結果、大仏殿の大きさは南北90m、東西55mであることが判明(奈良の大仏殿よりもかなり大きい)、遺跡はその後埋め戻され石のベンチなどで柱や台座など復元されている。

【大仏一覧】

世代 期間 形態 高さ 損壊原因
1代目 1595年 ~ 1596年 木製坐像 約19m 倒壊
1.5代目 製造途中(1603年)に焼失 銅製坐像 焼失
2代目 1612年 ~ 1662年 銅製坐像 約19m 倒壊
3代目 1667年 ~ 1798年 木製坐像 約19m 焼失
4代目 1843年 ~ 1973年 木製胸像 約14m 焼失

見どころ・おすすめ

  • 台座跡・柱跡-大仏が鎮座していた八角形の台座跡や大仏殿の柱跡が、石のベンチで再現されている。
  • かつての大仏殿跡地には豊国神社が建てられており、隣の方広寺には「大坂の陣」のきっかけとなった梵鐘が残っている。

関連動画

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仙洞御所・大宮御所・豊臣秀吉京都新城跡(京都御苑) https://rekishidou.com/sentogosyo/ https://rekishidou.com/sentogosyo/#respond Mon, 17 Apr 2017 01:14:12 +0000 http://rekishidou.com/?p=2859 京都府京都市京都御苑内にある江戸時代初期に造営された御所。豊臣秀吉が晩年に築いた京都新城跡地でもある。

歴史・概略

  • 元々この場所には、豊臣秀吉が関白の政庁兼邸宅として建てた聚楽第を破却した後に、その代わりとした邸宅があった。この屋敷は太閤上京屋敷や太閤御屋敷、太閤御所、京の城などと呼ばれ、現代では京都新城と呼ぶのが一般的である。
  • この場所は、御堂関白と呼ばれた平安時代の公卿・藤原道長の屋敷であった土御門殿があったあたりであり、秀吉はあえてこの場所を選んだともいわれる。
  • 慶長2年(1597年)の正月に工事が開始され、半年ほどで完成した後は秀吉の嫡男・豊臣秀頼が移り住んでいる。ただし、翌年の慶長3年(1598年)秀吉が没した後、遺命により秀頼大阪城に移ったため、使用された期間はわずかである。
  • 慶長4年(1599年)、秀吉の正室・おね(高台院が大阪城西の丸を徳川家康に明け渡し、この屋敷に移り住んだ。そのため高台院屋敷とも呼ばれる。
  • 慶長5年(1600年)、関ケ原の戦い」の際、朝廷に近いこの場所が戦闘に利用されるのを防ぐため、屋敷の石垣や堀などが徹底的に破壊された。
  • 慶長10年(1605年)、高台院秀吉を弔うため京都東山に高台寺を建立、門前に屋敷を建て移り住んだ。
  • 寛永4年(1627年)、後水尾天皇が譲位の意向を示した際に、京都新城跡地に仙洞御所(せんとうごしょ)が造営された。仙洞御所とは譲位後の天皇の御所を意味する。
    建物は安政元年(1854年)の火災によって焼失し、その後は再建はされず庭園のみが残った。
  • 大宮御所は仙洞御所の北側に位置し、後水尾天皇の中宮であった東福門院のために造営されたことに始まる。今の建物は慶応3年(1867年)に造営されたものである。
  • 京都新城に関しては、使用期間がごくわずかであったこと、破壊されてしまったこと、跡地に仙洞御所が建てられたことなどから、遺構はほとんどない。さらに資料も少なく、その範囲や縄張りなども分かっていないが、最近石垣遺構が発掘され新たな発見に期待が持たれている。

見どころ・おすすめ

  • かつて存在していた宮家や公家屋敷の多くは、一部を残してほとんどが撤去されており、今は一年中草花が楽しめる公園として整備されている。
  • 京都御苑内は平安時代から幕末に至る屋敷跡が点在し、いたるところに説明書きの駒札が立てられているので、それを巡るだけでもかなり楽しめる。

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