京都府京都市にあった安土桃山時代の城。ごく短期間ではあるが豊臣秀吉や徳川家康が一時期居城とした場所。
歴史・概略
- 天下統一を果たした豊臣秀吉は関白職とともに自邸の聚楽第を甥の豊臣秀次に譲り、自身は新たに伏見城(指月伏見城)を築城し移り住んだ。向島城(むかいじまじょう)はその伏見城のすぐ南側に築かれた城で、伏見城の支城のひとつ。
- 伏見城南側には今も宇治川がすぐそばを流れているが、築城当時この付近は川幅が大きく巨椋池(おぐらいけ)と呼ばれる湖が広がっていた。この巨椋池の中にはいくつもの島が点在し、向島城はそのひとつの島に築かれた水城である。
- もともとこの場所には徳川家康の屋敷があり、そこで行われた宴に呼ばれた秀吉がこの地を気に入って築城したともされる(案内板より)。
- 文禄5年(1596年)、慶長伏見地震が発生し伏見城が倒壊する被害を受けた。秀吉は比較的被害が少なかった向島城に移り、木幡山に新たな城(木幡山伏見城)を築くまで居城とした。
- 秀吉が亡くなると、禁止していたはずの大名間の婚姻を結ぶなど家康の勝手な行動が目立ち始める。これを政権内の前田利家や石田三成らが糾弾し一触即発の事態となったが、最終的に家康が向島城に移ることで決着した。
- 元和5年(1619年)、伏見城とともに廃城が決定。のちに廃城となった。
- 現在、巨椋池もすべて埋め立てられており、城の遺構はまったく見当たらない。ただ、「向島本丸町」や「向島二ノ丸町」など、町名に名前が残っている。
- 築城:文禄3年(1594年)
- 廃城:元和5年(1619年)以降
- 築城主:豊臣秀吉
- 構造:平城
- 主な城主:豊臣秀吉・徳川家康
史跡情報
地図 |
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【場所】 京都府京都市伏見区向島本丸町 【付近の史跡】
[ 北・約0.7km ] 指月伏見城跡
[ 北東・約0.7km ] 光明天皇・崇光天皇 大光明寺陵
[ 北西・約0.9km ] 伏見奉行所跡
[ 北西・約1.1km ] 伏見土佐藩邸跡
[ 北西・約1.2km ] 「鳥羽・伏見の戦い」会津藩駐屯地跡(伏見御堂)
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主な施設 |
案内板のみ |
利用時間 |
常時 |
定休日 |
無休 |
料金 |
無料 |
交通 |
【電車】 ・京阪電車「観月橋」駅から約0.6Km ・近鉄電車「向島」駅から約1.2Km ・JR「桃山」駅から約1.2Km 【バス】 ・近鉄バス「向島」バス停 ・京都京阪バス「四ツ谷池」バス停 ・奈良交通「四ツ谷池」バス停 【マイカー】 ・名神高速「京都南IC」から約5Km |