応仁の乱 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 場所と歴史をわかりやすく簡単に解説! Sat, 14 Oct 2023 01:54:48 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.2.5 https://rekishidou.com/wp-content/uploads/cropped-kofun-32x32.jpeg 応仁の乱 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 32 32 応仁の乱勃発地(御霊神社) https://rekishidou.com/ouninnoran/ https://rekishidou.com/ouninnoran/#respond Sun, 20 May 2018 03:19:54 +0000 http://bng2.com/rekinavi/?p=333 室町時代中期、「応仁の乱」が始まるきっかけとなる御霊合戦が行われた場所。

歴史・概略

  • 御霊合戦(ごりょうがっせん)とは応仁元年(1467年)1月18日朝、上御霊神社境内において畠山政長(はたけやま・まさなが)畠山義就(はたけやま・よしひろ/よしなり)との間で行われた戦いで「上御霊神社の戦い」とも呼ばれる。
  • 畠山氏細川氏斯波氏とともに室町幕府を支える三管領家のひとつで、先代管領であった畠山持国が約束を違えて弟の持富ではなく、庶子の義就を後継に指名したことから家中が分裂、以降10年以上に渡り争いが続けられた。一旦は義就が家督を継いで落ち着くものの、その後持富の子である政長が家督を奪う。しかし義就はその後も政長に対する工作を行い、それに焦りを感じた政長と再び戦闘になった。
  • あくまで畠山氏の家督を巡る争いではあったが、これに山名宗全朝倉孝景らが義就に加担し、それに対し幕府の有力者細川勝元が反発、この戦いをきっかけとして政権が分裂した。さらには将軍後継問題なども加わって、この先10年以上に及ぶ日本全土に波及する大乱へと拡大、室町幕府の権威が揺らぐ事態となった。
  • <応仁の乱のおもな戦い>
    御霊合戦・上京の戦い・東岩倉の戦い・相国寺の戦い・観音寺城の戦い・西岡の戦い・若江城の戦い

見どころ・おすすめ

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足利将軍室町第址(室町幕府御所) https://rekishidou.com/muromachidai/ https://rekishidou.com/muromachidai/#respond Tue, 08 Mar 2016 03:15:47 +0000 http://bng2.com/rekinavi/?p=325 室町幕府の時代、足利将軍家が邸宅としていた室町第(室町邸)があった場所。

歴史・概略

見どころ・おすすめ

  • この石碑の他に同じく室町第跡を表す「花の御所碑」と「花の御所石敷き」がまとめて回れる。
  • 他の足利将軍家の遺構である13代将軍義輝邸跡や15代将軍義昭の二条城跡などもここから近いので一緒に回れる。
  • ここは石碑のみなので京都御苑とか「応仁の乱」の史跡巡りとかに組み込むのがよいかと。

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観音寺城跡 https://rekishidou.com/kannonjijo/ https://rekishidou.com/kannonjijo/#respond Wed, 31 May 2017 01:42:12 +0000 http://rekishidou.com/?p=4327 滋賀県近江八幡市にあった戦国時代の山城。
近江の戦国大名・六角氏の居城として知られる。

歴史・概略

  • 標高約430メートルの繖(きぬがさ)山に築かれた山城で、築城年代は不明である。南北朝の頃には記述がみられるため、そのころにはあったとされている。ただ、当時は観音正寺を中心とした砦のようなものだったと考えられ、後に六角氏の本拠となった。
  • 応仁の乱」では六角氏同志や、同族である京極氏などが東西に別れて観音寺城で幾度も戦った。
    その後、織田信長足利義昭を奉じて上洛した際、六角氏織田氏と敵対し観音寺城は開城、後に廃城となった。
  • 築城:応仁年間~文明年間(1467年~1487年)
  • 廃城:永禄11年(1568年)
  • 築城主:六角氏頼
  • 構造:山城
  • 主な城主:六角氏
  • 日本100名城
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南禅寺 https://rekishidou.com/nanzenji/ https://rekishidou.com/nanzenji/#respond Fri, 14 Apr 2017 01:27:50 +0000 http://rekishidou.com/?p=4134 京都市東山にある鎌倉時代より続く臨済宗の禅寺。

歴史・概略

見どころ・おすすめ

  • 南禅院:南禅寺の別院。離宮禅林寺殿のあった場所で南禅寺発祥の地とされる。
  • 金地院:南禅寺の塔頭。慶長10年(1605年)に以心崇伝によって移築された。
  • 三門:重要文化財。寛永5年(1628年)に藤堂高虎によって再建。あくまで芝居の話だが石川五右衛門の「絶景かな!絶景かな!」の場面が有名。
  • 水路閣:明治23年(1890年)に琵琶湖疏水の分線として完成。レンガ造りの水道橋は寺の雰囲気を壊すことなく独特の景観を作り出している。
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花の御所石敷き(幕府将軍室町第) https://rekishidou.com/hananogosyo-2/ https://rekishidou.com/hananogosyo-2/#respond Tue, 22 May 2018 01:43:45 +0000 http://rekishidou.com/?p=4068 室町時代、足利将軍家が居所としていた室町殿の跡。室町幕府の名の由来ともなっており、「花の御所」とも呼ばれる。

歴史・概略

見どころ・おすすめ

  • この石碑の他に同じく室町第跡を表す「花の御所碑」と「足利将軍室町第址」がまとめて回れる。
  • 他の足利将軍家の遺構である13代将軍義輝邸跡や、15代将軍義昭の二条城跡などもここから近いので一緒に回れる。
  • 本史跡は京都御苑とか「応仁の乱」の史跡巡りとかに組み込むのがよいかと。

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山名宗全旧蹟 https://rekishidou.com/yamanakyuseki/ https://rekishidou.com/yamanakyuseki/#respond Thu, 10 Mar 2016 02:04:54 +0000 http://rekishidou.com/?p=2329 室町時代最大の戦乱のひとつ「応仁の乱」で、西軍の総大将となった山名宗全の邸宅があった場所。

歴史・概略

  • 乱のきっかけとなったのは室町幕府管領畠山氏の後継争いで、そこに山名宗全(やまな・そうぜん)の政権内の地位向上や、さらには足利将軍家の後継争いなども絡んで、後に「応仁の乱」と呼ばれる戦乱に拡大した。
  • 東軍の細川勝元は、細川邸と将軍の御所である「花の御所」を中心に陣を置き、西軍の山名宗全は山名邸に陣を置いた。東軍、西軍の呼び分け方はこのときの両軍の位置関係によるもの。
  • この周辺一帯が西陣と呼ばれる理由は、山名氏の邸宅を中心に西軍の陣地が置かれたためである。
  • 戦いは約10年間に渡って続き、西軍が陣を置いた山名邸や東軍が陣を置いた「花の御所」などは焼失、それ以外にも多くの建物が被害を受け、京都の街は荒廃していった。

見どころ・おすすめ

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東寺 https://rekishidou.com/toji/ https://rekishidou.com/toji/#respond Thu, 28 Apr 2016 02:20:53 +0000 http://bng2.com/rekinavi/?p=351 平安京遷都より続く京都にある真言宗寺院で教王護国寺(きょうおうごこくじ)とも呼ばれる。高野山を開いた平安時代の高僧空海ゆかりの寺として知られている。

歴史・概略

  • 平安京造営の際、都の守りとして建てられた国立の官寺。平安京の南側中央に設置された正門ともいえる羅城門(らしょうもん)の東側に東寺(とうじ)、西側に西寺(さいじ)がそれぞれ建てられた。それから数十年後の弘仁14年(823年)、東寺は空海(弘法大師)に下賜され真言密教の根本道場となった。

  • 西寺跡

    基壇が残る西寺跡(京都府京都市)

  • 1200年に及ぶ長い歴史の中では衰退していた時期もあったが、多くの有力者によって支えられ、現在では京都観光の名所となっている。
  • 国宝(金堂・五重塔・大師堂・蓮花門・観智院客殿)
  • 世界遺産(古都京都の文化財)
  • おもな出来事
    ・796年 建立
    ・823年 真言密教根本道場となる
    ・1221年 京方の三浦胤義が立て籠り幕府軍と交戦(承久の乱
    ・1336年 足利尊氏新田義貞が交戦(延元の乱
    ・1336年 光厳上皇が仮の御所とする
    ・1467年 応仁の乱大内政弘が陣を置く
    ・1486年 火災により大部分を焼失
    ・1603年 豊臣秀頼の寄進により金堂建立
    ・1644年 徳川家光の寄進により五重塔建立
    ・1994年 世界遺産に認定
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百々橋の礎石(応仁の乱) https://rekishidou.com/dodobashi/ https://rekishidou.com/dodobashi/#respond Wed, 18 May 2016 02:14:50 +0000 http://bng2.com/rekinavi/?p=347 百々橋は「応仁の乱」で激しい戦闘となった場所のひとつ。

歴史・概略

  • 百々橋(どどばし)は、堀川のすぐ東を南北に流れる小川(こかわ)に架かっていた橋である。名はこの付近が「百々ノ辻」と呼ばれていたことに由来する。
    ただし、今は開発によって小川は埋め立てられ、橋の礎石だけが残されている。
  • 室町時代中期、畠山氏や斯波氏、将軍家の後継問題などから日本全国の大名たちを巻き込んで後に「応仁の乱」と呼ばれる10年に及ぶ戦いが勃発した。
  • この場所のすぐ西には西軍の総大将となった山名宗全(やまな・そうぜん)邸、すぐ東には東軍の総大将となった細川勝元(ほそかわ・かつもと)邸があり、堀川と小川が流れていたちょうどこのあたりを挟んで両陣営がにらみ合った。
    東軍、西軍の分け方はこの時の配置によるもので、百々橋付近では東西両軍が数回にわたって交戦した。

見どころ・おすすめ

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山名宗全邸跡 https://rekishidou.com/yamanatei/ https://rekishidou.com/yamanatei/#respond Wed, 09 Mar 2016 02:10:17 +0000 http://bng2.com/rekinavi/?p=321 京都の街を戦乱に巻き込んだ「応仁の乱」において、総大将として西軍を率いた山名宗全が構えていた邸宅跡。

歴史・概略

  • 山名宗全(やまな・そうぜん)は、近畿・中国地方に勢力を張った山名氏の頭領。名は持豊宗全は出家後の法名で、一般的にはこちらが使われる。
  • 室町時代中期、管領家畠山氏の後継争いに端を発して戦闘が発生した。政権内で勢力を拡大しようと山名宗全は中立の約束を破り畠山義就(はたけやま・よしひろ/よしなり)に協力、それに畠山政長を推す細川勝元が反発し戦局が拡大した。
    さらに、足利8代将軍足利義政の後継を弟の義視(よしみ)としていたところに義政の子・義尚(よしひさ)が生まれたこと、斯波氏の後継争いなどが複雑に絡み合い、後に「応仁の乱」と呼ばれる10年に及ぶ大乱へと発展した。
  • 勝元は将軍邸である花の御所(室町第)に陣を張り、宗全は自身の邸宅に陣を敷いて対立した。東軍西軍の呼び名はこのときの配置によるもので、宗全邸の周辺地域が西陣と呼ばれるのはその名残である。
    京都中心部を戦場としたこの長い戦乱によって京都の町は焦土と化し、室町幕府の権威は次第に衰退、戦国時代の幕開けとなった。

見どころ・おすすめ

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応仁の乱洛中合戦勃発地・聚楽城 加藤清正邸・源頼光 一条邸・福岡藩邸・近衛邸跡 https://rekishidou.com/kiyomasatei/ https://rekishidou.com/kiyomasatei/#respond Sat, 26 Sep 2020 05:32:08 +0000 https://rekishidou.com/?p=9973 豊臣秀吉が天下を掌握した当時、京都に築いた聚楽第において加藤清正屋敷があったとされる場所。
この他にもいろんな時代の屋敷跡や戦跡として記録されている。

歴史・概略

  • 碑文
    「聚楽城 加藤清正邸跡伝承地」
    「此付近 応仁の乱 洛中合戦 勃発地」
    「藤原道綱母子 源頼光 一条邸跡」
    「筑前福岡黒田屋敷跡」
    「此北 近衛堀川屋敷跡」
  • 平安時代中期、摂政・関白・太政大臣であった藤原兼家の妻のひとりで蜻蛉日記を著した藤原道綱母(生没年・名前など詳細は不明)が住んでいた屋敷・一条邸があったとされる。その後は酒呑童子討伐で知られる武将・源頼光の屋敷ともなっている。
  • 室町時代中期、京都市街が焦土と化した「応仁の乱」において、洛中最初の合戦が起こった場所。東軍の京極持清はここから一条戻橋を渡り西軍と戦ったという。
  • 安土桃山時代、関白となった豊臣秀吉がこの付近を流れる堀川の西側に京における邸宅、兼政庁として聚楽第を築城、周辺には多くの大名屋敷が立ち並んだ。隣接地にある主計町の名から、ここは秀吉に近い加藤清正(主計頭・かずえのかみ)の屋敷があったとされている。
  • 江戸時代、筑前福岡藩の屋敷があった。
  • 江戸時代、この北側に藤原氏一族で五摂家のひとつ近衛家の屋敷があった。
    実は以前、この屋敷は薩長同盟が締結された小松帯刀の寓居とみられており、それを示す石碑も立てられていた。しかし、その後の新資料発見などで今は別の場所(小松帯刀寓居・御花畑屋敷跡・薩長同盟所縁地)とされ、その後石碑も新しく作り直されている。

見どころ・おすすめ

  • 平安時代中期に活躍した陰陽師・安倍晴明の居館跡であった晴明神社からすぐ近くなので、ついでに寄ってみればよいかと。
  • この周辺には聚楽第跡やその周りに建てられた大名屋敷跡が点在しているので、まとめて回るのがおすすめ。

関連動画

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