琵琶湖の南を流れ出る瀬田川に架かる橋。
歴史・概略
- 瀬田の唐橋(せたのからはし)は、現在の滋賀県大津市にある橋で、ほかに勢多大橋や勢多唐橋などとも表される。
- 古代より架かる瀬田の唐橋は、京都の宇治川に架かっていた宇治橋や、淀川に架かっていた山崎橋と合わせて日本三古橋と呼ばれる。
また、近江の優れた景色を選んだ近江八景のひとつにも選ばれている(瀬田の夕照)。 - 瀬田の唐橋は瀬田川を渡る唯一の橋として、古くより東と西とを結ぶ要衝の地であった。そのため戦乱の場となることも多く、そのたびに焼かれるなどの被害を受けた。そこのことから「唐橋を制する者は天下を制す」などともいわれることもあった。
- 『急がば回れ』の言葉は瀬田の唐橋に由来する。
東から西へ進むには琵琶湖を船で渡るのが早い。しかし、天候次第で遅れることも多かったことから、遠回りしてでも唐橋を渡った方が結局は早いというところからできた言葉とされる。 - 橋がかけられた年代は不明であるが、天智天皇が近江大津宮に都を遷した時代(667年~672年)に、橋が架けられたとされている。昭和63年(1988年)には、現在の橋からおよそ80メートル下流の場所で橋脚の基礎が発見され、この当時のものと考えられている。
- 天武天皇元年(672年)、「壬申の乱」。
天智天皇の皇子である大友皇子(弘文天皇)が橋板を外し、大海人皇子(後の天武天皇)と対峙。しかし大海人軍に突破され大友皇子は自決した。 - 天平宝字8年(764年)、「恵美押勝の乱(えみのおしかつのらん)」。「藤原仲麻呂の乱」ともいう。
反乱を起こした藤原仲麻呂(恵美押勝)が近江制圧に動いたため、孝謙上皇の意を受けた吉備真備が軍を先回りさせ唐橋を焼いた。進路をふさがれた仲麻呂は北上し、琵琶湖西岸で朝廷軍に敗北した。 - 寿永3年(1184年)、「治承・寿永の乱(源平合戦)」。
木曽義仲軍と源範頼・源義経軍の戦いが勃発。義仲家臣の今井兼平が唐橋の橋板を外して守備、後に宇治で敗走した義仲と合流し自害。 - 承久3年(1221年)、「承久の乱(じょうきゅうのらん)」。
朝廷軍と鎌倉幕府軍が瀬田川を挟んで交戦。 - 建武4年(1336年)、「延元の乱(えんげんのらん)」。「建武の乱」ともいう。
北朝の足利直義軍と南朝の名和長年の軍が交戦。 - 観応元年(1351年)、「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」。
足利尊氏派と足利直義派の軍が交戦、橋が焼かれた。 - 天正3年(1575年)、織田信長の命により瀬田城主・山岡景隆が橋を整備。
- 天正10年(1582年)、「本能寺の変」。
明智軍が安土城へ向かうのを阻止するため、山岡景隆が橋を焼いた。明智軍はこれにより3日間の足止めをくらい、このことが後の山崎の敗北につながったとも言われる。
この後橋は羽柴秀吉によって修復された。
見どころ・おすすめ
- この場所は古くより交通の要衝であったため、周辺には古代から寺院や政庁などが置かれ跡地には石碑が立てられている。
史跡情報
地図 |
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【場所】
滋賀県大津市瀬田 |
主な施設 |
瀬田唐橋 |
利用時間 |
常時 |
定休日 |
無休 |
料金 |
無料 |
交通 |
【電車】 ・京阪電車「唐橋前」駅から約0.3Km 【バス】 ・帝産湖南交通「橋本」バス停 ・近江鉄道・湖国バス「橋本」バス停 【マイカー】 ・名神高速道路「瀬田西IC」から約0.7Km |