歴史・概略
- 原昌胤(はらまさたね)は武田家臣団の中でも特に評価の高い武田二十四将のひとりにも数えられる武将で、信玄と勝頼の二代に仕えた。
- 天正3年(1575年)、勝頼は三河支配を狙って徳川方の長篠城を包囲、これによって織田・徳川連合軍が長篠へ援軍を出し「長篠の戦い」が起こった。
織田信長は同盟を結ぶ徳川家康の要請を受けて出陣、3重の土塁と馬防柵を構築した。そして戦いでは3000丁もの鉄砲によって武田軍を圧倒、武田軍は大敗を喫した。 - 武田軍はこの戦いで数多くの重臣たちを失い、昌胤も討ち取られた武将のひとりである。
見どころ・おすすめ
- 周辺には「長篠の戦い」に関する史跡が点在しているので、まとめて回るのがおすすめ。
- 新城市設楽原歴史資料館では「長篠の戦い」や火縄銃に関しての資料が展示がしてある。
- 3Kmほど東には、この戦いのきっかけとなった長篠城がある。
史跡情報
地図 |
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【場所】 愛知県新城市竹広 【付近の史跡】
[ 北東・約0.1km ] 信玄塚(長篠の戦い)
[ 北西・約0.1km ] 小幡信貞の墓(長篠の戦い)
[ 南西・約0.2km ] 山県昌景の墓(長篠の戦い)
[ 南東・約0.2km ] 首洗い池(長篠の戦い)
[ 北西・約0.3km ] 甘利信康の墓(長篠の戦い)
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主な施設 |
原昌胤の墓 |
利用時間 |
常時 |
定休日 |
無休 |
料金 |
無料 |
交通 |
【電車】 ・JR「三河東郷」駅から約0.8Km 【マイカー】 ・新東名高速道路「新城IC」から約1.2Km |